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街道松 甲州街道 道中記 街道松
街道地図
(39) 韮崎宿前半   竜王町の諏訪神社に「御柱」が有りました
甲府(柳町)宿から韮崎宿までは三里二十町というからおよそ14km。宿場間が短い甲州街道の中では次の台ケ原宿までの四里
(約16km)についで長い。今は住宅が途切れることはほとんど無いが当時はさぞ淋しい街道ではなかったかと想像する。

 平成18年12月20日
甲府(柳町)宿を出て美術館通り(国道52号)を歩き中央高速のガードをくぐると甲府市から甲斐市に入る。旧甲州街道はJR竜王駅入り口交差点のちょっと先を右に曲がって行く。

くり抜き石枠の井戸真球の道祖神国道52号から右へ曲がって数分、直径が45センチという「真球の道祖神」(左)が目に入った。この場所は江戸時代には地域の寄り合いの場であったということなのでその当時からの物かもしれない。 

道祖神からさらに数分、称念寺の境内に「くり抜き石枠の井戸」(右)がある。甲州道中に面していることから江戸時代には赤坂台を上る旅人の甘露の水だったとか。  


 ここから12月28日

赤坂供養塔諏訪神社の御柱

称念寺を出て中央線の踏切を渡りしばらく歩くと赤坂の上り。
坂の途中右側の大きな石塔は「赤坂供養塔」(左)。竜王町の念仏講中が建立したもので「南無阿弥陀仏」と刻まれたこの碑は安政年間(1855〜60)の建立。

供養塔の少し先に赤坂稲荷大明神と諏訪神社が並んでいるが、その諏訪神社に、なんと、「御柱」(右)が。この御柱は平成16年(2004)の御柱大祭の時の物。このような祭事はずっと続けてほしいですねー。  


庚申塔道標なまこ壁の土蔵赤坂を頂上まで上り左側の道を下ると「庚申塔道標」(左)が2基。庚申の下に「右市川駿(河) 左甲府江(戸)」と刻まれているのだが残念ながら「河と戸」は地面の中。  

道標の前を右に曲がると「なまこ壁の土蔵」(右)が並んでいる。これまで見てきた土蔵は白壁が多かったがこの先韮崎宿まではほとんどがなまこ壁。なまこ壁を見るとなんとなく江戸時代 そんな感じがする。


明和の石畳道二段重ねの道祖神なまこ壁の土蔵を見て4〜5分、自性院の参道は明和2年(1765)に造られたという「明和の石畳道」(左)。最近造られたのではないかと思うくらいよく手入れされている。

参道の入り口で球形道祖神の新たなバリエーションを発見。なんと、球形の石を「二段重ねにした道祖神」(右)。色々あるなー。この先にも、まだ新しい形の球形道祖神があるかも。10分ほど先、中央線ガード手前にも2段重ねの道祖神がありました。 


泣石二十二夜塔三界萬霊塔中央線のガード下を通り右へ曲がると彼方に見えたのは「泣石」(左下)と呼ばれる大きな石の山。
新府城に火を放ち岩殿城に落ち延びる武田勝頼一行。ここで立ち止まり燃える新府城を眺めた勝頼夫人が涙したという。その石の割れ目からは かつて水が流れ出していたそうだが中央線の工事で枯れてしまったのだとか。

しばらく歩くと「三界萬霊塔」(右)が道路際に。その隣に久しぶりに「二十三夜塔」が。
と思ったら、なんと「二十二夜塔」(右)と刻まれている。
  

舟形神社の石鳥居芭蕉句碑萬霊塔から10分ほど歩くと「舟形神社の石鳥居」(左)が。ずんぐりむっくりの形であるが実は大変古い鳥居なのだ。
柱に応永四年(1397)とあるから建立されたのは600年以上前。

数分歩いた先の六反川手前の路地を右に入った奥にあるのは「芭蕉句碑」(右)。
    昼見れば 首すじ赤き 蛍哉
この碑の文字は達筆中の達筆。この句に行き着くのが大変だった。


二十三夜塔金盞花小仏峠辺りを歩いているときは秋真っ盛り。いろんな花を楽しむことが出来たが今は冬枯れ。めったに花を見ることが出来ない。ちょっとした花でも写真に撮りたくなってしまう。「金盞花」(左)だろうか。

県道6号と国道20号がニアミスした所の交差点を右に入る上り坂が旧甲州街道で、上り詰めた三叉路にしばらく見なかった「二十三夜塔」(右)が2基。 この先は道なりに坂を下って行くと先ほど分かれた県道に合流。


ブルドック塩川橋今朝出発した中央線竜王駅前での事であるが。

ワンちゃんがじっとこちらを見ているが怖そうな顔。その犬は「ブルドック」(左)。ところが 近づいたら尻尾をちぎれんばかりに振って愛嬌を振りまき飼い主の手を振り解いて甘えてくるとは。ブルドックってこんなに可愛かったんだ。

県道に合流するとすぐに塩川に架かる「塩川橋」(右)を渡ることになる。橋を渡ると韮崎宿と七里岩絶壁が近い。
  

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