参道階段を下ると「谷保天満宮」(左)。千年以上の歴史を持つ天神様で、湯島、亀戸天神と並ぶ関東三大天神の一つ。昔は谷保(やぼ)天神と呼ばれていたとか。こんな戯れ詩が。 神ならば 出雲の国に行くべきを 目白で開帳 やぼの天神 本殿左の池の先に「常盤の清水」(右)と呼ばれる湧水がある。延宝年間(1673〜81)に詠まれた とことはに 湧ける泉のいやさかに 神の宮居の端垣となせり が「常盤」の由来とか。清水が枯れたことは一度も無いそうだ。
谷保天満宮から先も国道20号を歩くのだが途中に2基の「秋葉常夜灯」(左)がある。上谷保村常夜灯は寛政6年(1794)建立、青柳村常夜灯は寛政11年(1799)建立というからざっと200年ほど前のもの。
上谷保村常夜灯からちょっと先の右側に江戸時代に祀られた「五智如来」(右)の祠が歩道際にある。昭和初期までは地元の人による灯明や線香、供花が絶えなかったようだ。
日野橋交差点まで歩くと甲州街道は国道20号と別れ右に入って行く。
この先からはちょっと複雑。「立川通りと新奥多摩街道の間の斜めに入る道」(左)が旧甲州街道。ここを200mほど歩き三叉路を左に曲がり新奥多摩街道を横断。下水処理場の横を通って行く。
下水処理場横を80mほど歩くと左側にオブジェのような物?があるがこれは「日野渡し跡碑」(右)。碑の上に乗っている物は渡し舟らしい。碑には縷々記されているが 「渡しが出来たのはいつ頃だか誰も知らない」 と 。
この先は多摩川を渡し舟で対岸へ。今は上流側の立日橋を渡っていく。
立日橋から見える「多摩川」(左)の橙色線付近が「日野の渡しがあった場所」(左)辺りかと推察する。下流彼方に見える橋は国道20号(現甲州街道)の日野橋。
立日橋の先は真っ直ぐ行くべきだが寄り道を。橋を渡ったらモノレールに沿ってどこまでも歩くと中央高速の先に「万願寺一里塚」(右)の小山が出現。南側だけ残っていた塚を発掘し復元したもの。頂上に小さな木が植わっているのが滑稽だ。万願寺一里塚は甲州古道沿いにあった塚で、日本橋から9番目の一里塚となるが旧甲州街道からはかなり離れている。
川崎街道入り口を過ぎると日野宿本陣の看板。屋敷門を入ると文久3年(1863)上棟という「日野宿本陣建物」(左)が構えている。土間に入ると黒光りする見事な大黒柱が目の前に。これは立派だ。
ちなみに、日野宿は本陣1・脇本陣1・旅籠20軒 だった。 本陣門の道路反対側に石碑が1基。刻まれている文字は「甲州街道日野宿 問屋場・高札場跡」(右)。
ちょっと先のガソリンスタンド脇におやっと思う物が立っていた。かねこばし と刻まれた擬宝珠の乗った「親柱」(左)。江戸時代、ここに用水(日野用水の前身)が流れており橋があったことを後世まで伝えようと平成9年(1997)に建立。
ガソリンスタンドの斜め向こう側に見えたのは「八坂神社」(右)の鳥居。この神社の本殿は寛政12年(1800)完成ということだが、鉄筋コンクリート建物の中を覗いて見ると木造の本殿が。
八坂神社の次の信号を左に曲がり宝泉寺に行くと本堂の左側に新選組六番隊隊長「井上源三郎の碑」(左)がある。そういえば「新選組のふるさと日野」というノボリを見たが新選組に触れたのは初めてだなー。
宝泉寺前の坂道を上っていくと見えたのは正徳3年(1718)に建立されたという地蔵菩薩銅像が納められている坂下地蔵堂。御堂前で道行く人に微笑んでいるのは「石造りの地蔵様」(右)。ところで坂を上った所にあるのに何故 坂下地蔵? 旧甲州街道はJR中央線で分断されているが本来はこの先の日野台まではかなり長い上り坂。 そうかー、地蔵様は確かに坂の下だ
中央線のガードを潜ったら長ーい上り坂。その頂上の日野台で県道256号に合流。 右側に渡り日野自動車の工場前を歩いているとフェンスの高いところに「日野台一里塚跡」(左)の説明板が掲げられている。 なんでこんなに高いところに掲げるのだ。 危うく見落とすところだったよ!
一里塚の先は旧大和田村に向かって下り坂。途中で国道20号から左の旧道に入るがすぐに国道に戻って浅川を渡るとその先は横山宿(現八王子)。
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