間々田宿へ向かう途中に「乙女」という地名があったが、「おばん」でなくてよかったよ |
間々田宿は日光街道11番目の宿場で日本橋と日光の中間点に位置していた。街道は現在の国道4号とほぼ重なっているが、
ここも野木宿などと同様に古民家が多少残るものの往時の面影はほとんど見られない。 |
国道4号を北上すると歩道橋に「小山市乙女」(左)と記されている。ここは乙女という地名のようだが響きがいいねー。「おばん」でなくてよかったよ。
間々田駅入り口交差点を左に曲がった奥に「乙女のお不動様」がいるらしい。興味津々、見に行く事に。おばん不動だったら怒るよ。数分先の泉龍寺入り口で、見ましたよ、「乙女不動」(右)を。でもなー、乙女と言うにはちょっとなー。
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泉龍寺の前に広がる公園は「乙女不動原瓦窯跡」(左)遺跡。
説明書きによると「この近くにあった下野国分寺や下野薬師寺の屋根瓦を焼いた窯跡」とある。この遺跡では4基の窯跡とともに
工房跡や粘土採掘坑跡、瓦集積場跡なども発掘されており それらを復元。
国分寺の屋根瓦というから奈良時代のこと。そんな昔にこの場所で瓦職人が腕によりを掛けて瓦を焼いていたかと思うとロマンを感じますネー。
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街道に戻りしばらく歩くと消防署先の交差点から10mほどの所に建てられた石碑は「逢いの榎碑」(左)。「逢いの榎」とはなかなか粋な。縁結びの木として信仰を集めた時期もあったようです。本当は「間(あい)の榎」といい、例幣使が江戸と日光の中間に目印として植えたのだが いつの頃か 逢いの榎 に。
数分先の左側奥に見えるのは「龍昌寺赤門」(右)。 この寺院は徳川家光の御棺を日光へ移送する際、仮安置したという云われがあり本堂横に「家光公御御霊棺仮泊之碑」と刻まれた石碑が建てられている。
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龍昌寺の先に「間々田宿問屋場跡」(左)があるのだが今は駐車場となっており説明板が建てられているのみ。
100mほど先の左側が「本陣跡」(右)で ここも本陣が有ったことを記した説明板が建てられているが規模などの記述は無い。資料によると間々田宿には本陣・脇本陣が1軒づつあり 旅籠は50軒ほどだったようだ。
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街道に戻り千駄塚まで来たら また寄り道を。
街道から左へ100mほどの奥は「千駄塚古墳」(左)。直径70mほどの小さな古墳だが なんと、いまだに発掘調査が行われていない。
再び街道をてくてくと10分、交差点向こうに見えるのは明治5年(1872)創業という「西堀酒造」(右)の酒蔵。正面に回ると、杉玉(酒林)が下がっていますよ。
次の小山宿までは約一里、小一時間の街道歩きだ。地図を見ると国道4号と分かれた後は小山宿まで真っ直ぐな道が。
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