やっちゃ場の喧噪も、今は昔となってしまった千住宿でした。
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日本橋を出発し隅田川を渡るとやっちゃ場の喧噪があり、その先が江戸四宿(千住・品川・内藤新宿・板橋)の一つ 千住宿。
千住はまた松尾芭蕉が奥の細道に旅立った出発地でもあった。 |
平成19年2月19日
浅草から吉野通りを下って来ると明治通りと交差するが、ここの信号には「泪橋」(左)という表示がある。千住宿は泪橋の重い話からスタートとなってしまった。
その昔、現明治通りの北側を思川(おもいがわ)という川が流れていたが、ここに架かる橋を 泪橋 と呼んでいた。この先にある小塚原(こづかっぱら)のお仕置場に赴く囚人が涙を流したからとも、付きそう人が別れの涙を流したからとも伝えられているが、今は信号の表示だけが当時をしのばせる。
貨物線の高架橋を渡ると左の奥まった所に見えるのは「小塚原刑場跡」(右)。その先の寺院は刑死者を供養するために創建された回向院で吉田松陰の墓もある。
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回向院前から吉野通りを10分ほど歩くと国道4号と交差。旧日光街道はここを右に曲がり千住大橋を渡るのだが、左に曲がり7〜8分歩いて国道沿いにある円通寺に寄り道を。
慶応4年(1868)、上野・寛永寺に集結した章義隊は官軍と激しい戦いの末敗走。本堂横に「彰義隊士の墓」(左)があるが、累々と横たわる屍を円通寺の和尚が合葬。
後年、「上野寛永寺の黒門」(右)が円通寺に移され保存されているが 柱を見るとビックリしますよ。写真では分かりにくいが無数の弾痕が残っている。激しい撃ち合いだったのだろう。
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国道を吉野通りとの交差点まで戻ると交番の裏に素盞雄(すさのお)神社が鎮座しているが、ここに「芭蕉句碑」(左)がある。
行く春や 鳥啼魚の 目はなみだ はせお翁
併記されている文は「千寿という所より舟をあがれば・・・・・」という旅立ちの思い。
神社を出るとその先が「千住大橋」(右)。最初の橋は文禄3年(1594)に架けられたが現在の橋は昭和2年(1927)に架橋されたもの。橋の先はいよいよ千住宿だ。
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橋を渡ると左側の大橋公園入り口に「矢立初めの地碑」(左)が建てられており、公園の中には奥の細道行程図や 行く春や 鳥啼魚の 目は泪 の句が刻まれた矢立初の碑なども。
川岸のテラスに出ると壁面に描かれていたのは「芭蕉と曽良の旅立ち」(右)の様子。
時は元禄2年(1689)、前途三千里の思いの旅立ち、心細かっただろうなー。
この先は元に戻らず 千住小橋 という小さな鉄橋を渡って千住大橋の右側に移り階段を上がって旧日光街道に入っていく。
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京成線ガードの先左側の石碑は「芭蕉句碑」(左)。
鮎の子の しら魚送る 別哉 芭蕉
「行く春や・・・・」の前に作られた旅立ちの句と言われているが。
その奥は白壁のまぶしい「千住宿歴史プチテラス」(左)。開館が土日のみというのがちょっと残念。
プチテラスの先の路地を左に入った奥の稲荷神社に建てられていたのは「千住市場創立三百三十年碑」(右)。明治39年(1906)に建てられてものだが、やっちゃ場は昭和16年(1941)まで続いていた。
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江戸時代と変わらない道幅だという街道をぶらぶらと歩き、 墨堤通り を横断し、藝大前交差点までくると石碑が2本。 |
藝大前交差点まで戻り右へ曲がって(千住大橋方向から来た場合は左折)「千住神社」(左)まで足を伸ばしてみた。
千住七福神の恵比寿様で知られる神社だが参道の途中にあるのは「芭蕉句碑」(右)。
ものいえば 唇さむし 穐(あき)の風 はせを
千住神社は一見稲荷神社のようだが、それもそのはず。伏見稲荷を分霊した神社だったが その後変遷を経て千住神社に。
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街道に戻り藝大前交差点から200mほど歩き十字路を右に曲がった先の金蔵寺墓地に「悲しい歴史の石塔が2基」(左)。
無縁塔には「天保八年の飢饉で飢えて死せる者八百二十八人・・・・」と記されている。また 命を落とした遊女は無縁仏同様に葬られたのだとか。 合掌。
先ほどの十字路まで戻り50mほど先を左に曲がると見えるのは「勝専寺赤門」(右)。この寺院には御殿があり徳川秀忠・家光・家綱などがよく訪れていた。
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JR北千住駅へ向かう道路との交差点を横断し30mほど歩くと左側の店の前に「千住宿本陣跡碑」(左)が申し訳なさそうに立っている。 遠慮しなくていいんだよ。
3〜4分歩き左側の路地を入ると 千住本氷川神社 に突き当たるが ここにも「芭蕉句碑」(右)が有った。
春もやゝ 景色とゝのふ 月と梅
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街道に戻り、ちょっと歩くと 本町公園 の入り口に高札場が復元されている。その先の古民家は松屋という屋号で紙問屋を営んでいた「横山家住宅」(左)で江戸時代後期の建物。
道路反対側の木製ガラス戸がはめ込まれた店は江戸時代中頃から絵馬や地口行灯、凧などの絵柄を描いてきた「際物問屋の吉田屋」(左)。胡粉と泥絵の具で絵馬を描く絵馬師は八代目だという。 手書きの絵馬は貴重な存在。
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横山家住宅を過ぎた辺りから人通りが少なくなり静かな街道に変わって行く。次の十字路で右に曲がる道が旧水戸街道、旧日光街道は直進。
交差点を横断して最初の路地を左に入ると突き当たりに安養院という寺院があるが、本堂前に「芭蕉句碑」(左)がある。
行く春や 鳥なき魚の 目は泪 芭蕉翁
千住宿は芭蕉句碑が本当に多いところだ。
路地から戻り50mほど歩いた右側は明和年間(1764〜)開業というから200年以上続く接骨院の「名倉医院」(右)。
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名倉医院の手前に道標が建てられているが旧日光街道は左折して荒川に向かう。直進の道はいつか歩きたい旧下妻街道。
左に曲がって数分歩き螺旋階段を上がると千住新橋が目の前。江戸時代には無かった「荒川」(左)を眺めながら橋を渡り、左折して旧日光街道の入り口(善立寺横)まで堤下の道をてくてくと。
善立寺横から再び旧日光街道に入り30分、将軍家御成橋・・・・・と刻まれた石柱の手前を左に入った先の国土安穏(あんのん)寺には立派な「御成門」(右)があるが、この寺院は徳川家の御膳所として秀忠や家光がしばしば立ち寄ったという。
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街道からかなり離れた場所であるが「炎天寺」(左)という変わった名前の寺院があるので寄り道を。その昔、この地で源頼義・義家父子が野武士軍団と戦い勝利した6月が炎天続きであったので地名を六月村、寺名を炎天寺と改めたのだとか。
ここは小林一茶ゆかりの寺で、「一茶の句碑」(右)が2基建てられている。
やせ蛙 まけるな一茶 是にあり 一茶
蝉なくや 六月村の 炎天寺 一茶
炎天寺は小中学生には結構知られた存在のようで俳句大会には全国から20万作以上の投句があるそうだ。
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炎天寺から草加までは坦々とした街道が30分以上続き、ちょっと退屈な街道歩きになってしまった。 |
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