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(21)鉢石宿 街道地図
ついに大谷川に架かる日光橋へ到着。日光街道の旅も終わった
鉢石(はついし)宿は東照宮の造営に伴い正保元年(1644)に日光道中(日光街道)の最終宿として設置され 東照宮参詣の客で賑わった宿場。
中世期までは坂本と呼ばれていたが日光山を開山した勝道
(しょうどう)上人ゆかりの石が「鉢を伏せたような形」であったので「鉢石」と呼ばれ、
後の東照宮造営の頃から鉢石宿と呼ばれるようになった。

 平成19年4月26日

杉並木道砲弾打込杉

今市宿から続いていた杉並木は瀬川の集落で一旦途切れるが集落が終わると再び見事な「杉並木道」(左)。ここは車が通らないので快適な街道歩きだ。

砲弾打込杉しばらく歩くと「砲弾打込杉」(右)という説明書きが。 写真左側の杉に戊辰戦争のとき官軍が打ち込んだ砲弾が当たって破裂した跡が今でも見られる。
この先も杉並木だが花粉の季節だったら大変だ。


石の梵鐘戊辰戦争隊士の墓

杉並木の右側に「石の梵鐘」(左)が置かれているが、ここは龍蔵寺跡。かつて村人が石の梵鐘を奉納しようとしたところ重さで竜頭が破壊。以来ここに放置されているのだとか。えっ、石の梵鐘?と思ったが全国には幾つかありますね。

杉並木の所々に見える墓地の中に「戊辰戦争隊士の墓」(右)と記された標柱が立つ墓があった。彰義隊の墓 以来、何度も見た戊辰戦争犠牲者の墓がここにもあった。


並木太郎杉の説明板銀杏杉明治天皇七里御小休所跡碑

国道に合流すると杉並木は無くなってしまうが7〜8分歩くと再び車道の両側が杉並木。
並木に入ってすぐの右側に立つ「並木太郎」(左)と呼ばれる杉は樹高38m、少し先には根本が銀杏のように広がった「銀杏杉」(左)が、共にすっくと立っている。

杉並木が終わった所の石碑は「明治天皇七里御小休所跡碑」(右)。明治9年(1876)、東北巡幸の帰途、小休みされた場所だ。  


筋違(すじかい)橋下の麻疹地蔵異人石 交差点を越え 筋違(すじかい)まで来ると橋の左下に「麻疹地蔵」(左)が鎮座。このお地蔵さんは麻疹を直してくれるそうだ。何故って、橋の下にあるから橋下=はしか=麻疹。

筋違橋を渡ると道は二つに分かれるが左の道を入ると再び杉並木。道端の大石は「異人石」(右)と呼ばれている。
明治の頃、一人の外人が石屋にたのんで座りやすい石に加工してもらい毎日ここに座って杉並木を観賞していたのだとか。


3〜4分歩くとJR日光線のガード下。ここで国道を横断し右に移ると再び杉並木道となるがすぐに国道に合流。この辺りから鉢石宿となり日光東照宮まで上りの坂道が続く。
この先はJR日光駅前を過ぎ東武日光駅前も通り過ぎていく。


戊辰戦争隊士の墓稲荷神社で「西行法師歌碑

さらに500mほど歩いた先の龍蔵寺にも本堂横に「戊辰戦争隊士の墓」(左)があった。

龍蔵寺奥の稲荷神社で見たのは「西行法師歌碑」(右)。
     ながむながむ 散なむことを きみも思え くろ髪山に 花さきにけり

歌碑の隣に「西行戻し石」といわれる面白い石が。
西行が石の上の子供に「小僧どこえ行く」と聞くと、小僧は「冬萌(ほ)きて 夏枯れ草を刈りにゆく」(麦刈り)と答えたので西行は「手強い相手だ。歌比べは難しい」と引き返してしまったのだとか。


鉢石宿の由来となった 史跡鉢石磐裂(いわさく)霊水

街道に戻ると日光橋まで真っ直ぐの上り坂。鉢石宿には本陣が2軒有ったが明確な場所は分からない。

上り坂の右側を歩いていると鉢石宿の由来となった 史跡鉢石 と記された標柱を発見。横の坂道を下ると 「鉢石(はついし)(左)が注連縄で守られていた。

坂道をさらに日光橋近くまで上ると小さな公園があり傍らの「磐裂(いわさく)霊水」(右)から「日本で最もおいしい水」(説明板による)が滾々と湧き出ている。うん、たしかに旨い。


天海大僧正像日光橋

磐裂霊水の先の銅像は 「天海大僧正」(左)。 
天海は家康に仕え家康死後、遺言通りに遺骨を久能山から日光山に移した人物。

道路を挟んで反対側には戊辰戦争の戦火から東照宮を守った板垣退助の銅像も。

ついに到着。日光街道(日光道中)の終着地です。「日光橋」(右)を渡り階段を上ると、その先は輪王寺を経て東照宮
  

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