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旅人  日光御成道 道中記 御成道碑
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(4)大門宿 街道地図

「本陣表門」は寄棟造り茅葺長屋門。なんと300年の歴史を持つそうだ。

大門(だいもん)宿は、本陣1・脇本陣1・旅籠6軒という小さな宿場であったが、本陣・脇本陣それぞれの表門は
それはそれは立派。これまで東海道・甲州街道・日光街道を歩いてきたが これほど立派な本陣門・脇本陣門は
見たことがない。

 平成19年8月1日

一里塚ポケットパーク本行寺妙延寺で乙女らしからぬ乙女を見た後、再び街道をてくてくと二十数分、交差点際のきれいに刈り込まれた植え込みは「一里塚ポケットパーク(左)。説明板などは無く少々唐突な感じの公園だが ここは戸塚一里塚跡。

さらに5〜6分歩いたら右へ曲がって寄り道を。向かった先は「本行寺」(右)。 味わいある本堂だが目的は芭蕉句碑。ところが残念。庭の工事のため碑は倉庫に保管中なのだとか。
   たふとがる 涙や染めて 散る紅葉 が刻まれているはず。

気を取り直して街道に戻りJR武蔵野線を越えると火の見櫓の奥に見えたのは諏訪大明神の真っ赤な鳥居。 コメント:その後、石の鳥居に造り替えられています。

大門宿本陣表門脇本陣表門国道463号に合流して10分、一軒の家かと見まがうほど立派な寄棟造り茅葺屋根の長屋門は「大門宿本陣表門」(左)。300年以上前の元禄7年(1694)建設だという。

道路を挟んで斜向かいは「脇本陣表門」(右)。こちらも立派な寄棟造りの茅葺長屋門。建設年代は安永5年(1776)と云われているが明確ではない。

本陣表門は300年以上、脇本陣表門でも200年以上の歴史。これからも永く残したい貴重な遺構。

徳本上人念仏供養塔茅葺屋根の鐘楼この先で国道463号は左に曲がって行くが御成道は真っすぐ進む。
数分先の右側、桜並木の見事な参道は大興寺。今はどうということ無いが桜の季節は見応えありそうだ。

山門を入ると供養塔や庚申塔などが沢山並んでいるが その中でもひときわ大きい供養塔が「徳本上人念仏供養塔」(左)。供養塔は文政4年(1821)の建立。

境内右手の鐘楼は「茅葺の屋根」(右)。今の時代には貴重な存在の茅葺であるが味わいありますねー。 コメント:鐘楼は立て替えられ、現在は茅葺ではありません。

大興寺参道桜並木東北自動車道「大興寺参道桜並木」(左)を通って街道に戻り数分歩くと「東北自動車道」(右)の上。

この先、御成道は見沼代用水東縁につかず離れず北上し膝子一里塚・岩槻宿・相野原一里塚・下野田一里塚・下高野一里塚を通り幸手宿の手前で日光街道に合流する。


 平成19年8月30日

庚申塔巨大なかぼちゃ東北自動車道を越え、国道463号浦和川越バイパスを越えると再び静かな街道。しばらく歩くと右側に「庚申塔」(左)が2基。隣りには高さ30センチほどの可愛らしい庚申塔も。 左側の庚申塔には文化2年(1806)と刻まれている。200年もの長い間ここに立っていたんだねー。

御成道はこのまま真っ直ぐだが ここまで来て見沼代用水を見ないのはもったいない。バス停南部領辻の手前を左に入り寄り道を。

畑の中にリュックサックより大きい「巨大なかぼちゃ」(右)が有りました。これでパンプキンパイを作ったら何人前?

国昌寺山門左甚五郎作と伝わる欄間の龍10分ほど歩くと右奥に見えたのが「国昌寺山門」(左)。この山門は江戸時代中期の建築と伝わるが今は開かずの門。「欄間の龍」(右)は左甚五郎の作なのだそうだ。

なぜ開かずの門なのかというと。
見沼に住んでいた龍が夜な夜な畑を荒らしまわっていたので日光から帰る途中の左甚五郎に龍を彫ってもらい釘付けにして門に収めたのだった。ところが、この龍はまだ悪さをしていた。棺をかついでこの門をくぐると龍にご遺体を食われてしまうという。以来、この門は 開かずの門となってしまったのだとか。 

見沼代用水東縁見沼代用水東縁国昌寺のすぐ先は「見沼代用水東縁」(左・右)。この用水は見沼溜池を田圃にする変わりに代替用水路として建設したもので、なんと利根川から延々80kmの用水路。

この用水路建設にあたっても龍伝説が伝わっている。
見沼溜池に住んでいた龍神を追い出してしまったので その霊を慰めようと工事を行った井沢弥惣兵衛が万年寺に龍神灯を奉納。ところが誰も灯をつけないのに毎夜のように灯火がともされたそうだ。なんと、美しい女が夜な夜な灯をともしていたのだがその美女こそ実は見沼の龍神だった。

総持院山門鷲神社橋を渡って見沼代用水の土手道を上流へしばらく歩き総持院橋を渡ると左手奥に見えるのは立派な2階建ての「総持院山門」(左)。

この先も街道に戻らず総持院横の道を道なりに進むと森の中に「鷲神社」(右)が。伝えによると新羅三郎義光が奥州に下向のおり、この地で気瑞(めでたい前兆)を感じたことから神社が造られたのだとか。とすると1000年近くの歴史。

さぎ山記念公園マップ井沢弥惣兵衛為永像街道に戻り天久保坂を下った先を左に曲がると目の前が「さぎ山記念公園」(左)。かつては野田のさぎ山と呼ばれ特別天然記念物に指定された場所だが今は1羽の鷺も見られない。

公園の隣りに見沼代用水東縁が流れておりその先が見沼自然公園。公園広場の端に立つ銅像は見沼代用水を建設した「井沢弥惣兵衛為永」(右)。延々80kmの代用水を、なんと、わずか5ヶ月で完成させたという信じられない偉業を成し遂げた人物。

膝子(ひざこ)一里塚六地蔵と供養塔街道に戻り20数分歩いた先の高徳寺前から さらに5〜6分、道路際の大木がある場所は江戸から8番目の「膝子(ひざこ)一里塚」(左)。現存の一里塚で大宮市指定文化財という貴重なもの。石碑が建てられ標柱と説明板もある。だが ちょっと荒れた感じがするのが残念。

塚の右端に「六地蔵と供養塔」(右)が鎮座。
コメント:大宮市は、浦和市、与野市と合併し「さいたま市」という市名に変わりました。

満蔵寺板碑10分ほど歩き右に入ったところの「満蔵寺」(左)に円空仏が有るという。 まさか!
ところが まさかではなかった。残念ながら円空仏は埼玉県博物館に寄託している、とのことで見ることは叶わなかったが埼玉県には円空仏が結構多く残っているのですね。

代わりに見たのが「板碑(右)。説明板によると嘉暦四年(1329)の銘が読み取れるという。700年も前だなー。

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