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(3)鳩ヶ谷宿 街道地図

「あまりにも美しく可憐な乙女」 には見えんのよ

鳩ヶ谷宿は江戸時代以前から奥州へ向かう交通の要所として栄えていたが、江戸時代に入ると御成道の宿駅が設けられ、また三八市が開かれるなど物資の集散地としても大変にぎわった宿場であった。 鉄道駅から遠かった事が幸いして昔の町並みが比較的よく残っている。

 平成19年6月26日

しんけいどう(新街道)観音庚申塔土地の古老が「しんけいどう(新街道)(左)と呼ぶ日光御成道、別称・岩槻街道を北上し南鳩ヶ谷駅の表示が出たら その先の交差点を右に入ってちょっと寄り道を。

3〜4分歩くと静かなたたずまいの中に真っ白なキョウチクトウが今まさに満開(6月下旬)実正寺。山門を入り塀に沿って左手奥に入ると地蔵尊などの石塔群が並んでいるが、その中に柔和なお顔の観音石像がある。よく見ると三猿が刻まれた「観音庚申塔」(右)であった。造立されたのは寛文5年(1665)


松原清嵐碑国道から分かれる御成り道街道に戻り鳩ヶ谷大橋を渡ると左は巨大な変電所。この辺り、かつては松並木が続き涼しげな街道であった。 昭和3年(1928)に鳩ヶ谷八景を選定した際、この地を松原清嵐とし碑を建てたがその「松原清嵐碑」(左)が変電所入り口の植え込みの中に。 

その先の歩道橋で国道の右側に移るのだが 歩道橋から下を見ると「御成り道」(右)が国道122号から分かれ右へ 入っていく。


源永寺の板碑保坂家の古民家5分ほど歩き三ツ和丁字路まで来たら寄り道を、と向かった場所は7〜8分先の源永寺。 この寺にも庚申塔や六地蔵など古い石仏が沢山あるが、中でも鐘楼下の「板碑」(左)は建武5年(1338)・暦応3年(1340)・貞和4年(1348)の銘が入った古いもの。時代は室町初期。大切に残してくれた先人に感謝だ。

街道に戻り数分歩くと交差点向こうに見えたのが「保坂家の古民家」(右)。瓦葺ではあるが情緒ありますねー。


とんぼ橋遺構見沼代用水東縁

数分先の商店前に置かれた石材は「とんぼ橋遺構」(左)。説明書きによると「用水改修作業で発掘された石材に延寶5年(1677)・・・とんぼ橋・・・と刻まれている」そうだ。この石材は鳩ヶ谷市の文化財。

さらに2〜3分歩いた先の吹上橋の下に流れている川は「見沼代用水東縁」(右)。この用水路は江戸時代に造られたものであるが、なんと、利根川から延々80km。建設重機の無い時代、苦労がしのばれる。


御成坂公園本陣建物(真光寺の本堂)

吹上橋を渡ると上り坂となりこの先は鳩ヶ谷宿。

坂を上り始めてすぐの左側に「御成坂公園」(左)が設けられており御成道に関する様々な壁画がはめ込まれている。 だが、ちょっと殺風景な感じが残念。

坂を上っていくと頂上の少し手前右側に本陣があったのだが今は藤屋という洋品店。残念、と思ったら「本陣建物」(右)が現存していたのだ。歩いて二十数分ほどの鳩ヶ谷駅西方、真光寺の本堂は移築され本陣建物であった。


北西本店の2階建て古民家鳩ヶ谷郷土資料館

さらに坂を上ると「北西本店の2階建て古民家」(左)が左側に見えるが、ここは埼玉の銘酒・文楽などを扱う酒屋さん。

鳩ヶ谷宿本陣模型その先の丁字路を右に入った「鳩ヶ谷郷土資料館」(右)に「鳩ヶ谷宿本陣模型」(右)が展示されていたが、真光寺に移築されていると記されているではないか。これは見過ごすわけにはいかぬ。ということで見てきたのが前項の真光寺本堂。


氷川神社小連れ狛犬市神社北西本店先の路地を左に入った奥は鳩ヶ谷宿の鎮守「氷川神社」(左)。徳川家康が奥州出陣の途中、境内で休憩したという由緒ある神社。ここで「小連れ狛犬」(左)を発見。岩淵宿でも小連れ狛犬を見たが子連れとはなんとも可愛いね〜。

街道に戻ると右側に「市神社」(右)の小さな祠がある。鳩ヶ谷宿を賑わせた三八市(さんぱちいち)の守り神として天保9年(1838)に奉られたのだとか。

法性寺山門道標

その先の銀行前交差点を左に曲がり坂を下って向かった先が法性寺。墓地先の階段上に見える「山門」(左)は足利時代末期建立なのだとか。さりげなく立つ山門だが四百数十年もの長い間ここに立ち続けているとは「凄い」の一言。

街道に戻って4〜5分、変則四差路を右に入ると さらにその右奥は地蔵院。入り口に「道標」(右)が立てられているが傍らの標柱に書かれた文字は「道標 文政5年(1822)]となんともそっけない。


良縁地蔵お地蔵様が2体

地蔵院山門を入ると右手の祠の中にお地蔵様が微笑んでいる。「良縁地蔵」(左)と云うそうだが、なかなか良い昔話が。

せがれが村娘を好きになってしまい困ったお大尽のおかみさん、お地蔵様に村娘との縁が切れるようにお祈りしたところ逆に娘さんの良いところが次々と思い出され ふっとお地蔵さんを見ると「良い縁を切ってはいけないよ」と語りかけてきたのだとか。

街道に戻り てくてくと歩いていると「お地蔵様が2体」(右)。この地蔵様には良い話は無さそうだがビールやお茶が沢山奉げられている。きっと地元の人達に大事にされているのだろう。


ここから8月1日

赤山城址碑地蔵菩薩道標

街道をさらに先に進み石神南まで来たら東京外環道に沿って右に曲がり寄り道を。といっても片道20分以上歩くのだが。

目指すは「赤山城址」(左)。関東郡代となった伊奈氏はここに赤山城を築き160年に渡って居城としてきたが寛政4年(1792)、養子問題などささいな事で所領を没収され廃城となった悲劇の城。

街道に戻りちょっと歩いた右奥の真乗院本堂前の「地蔵菩薩道標」(右)は元文2年(1737)の造立で正面に「南江戸ほんがう道」、左右に「北いわつき道」「江戸あさ草道」と刻まれているそうだがほとんど読み取れない。


女郎仏看板妙延寺女郎絵馬

次の大門宿へ入る前にぜひ見ておきたい場所が女郎仏があるという「妙延寺」(左)。

暴風雨の翌日、若い女性が倒れていたが介抱の甲斐なく息を引き取ったそうな。あまりにも美しく可憐な乙女でありながら身分を明かさなかったので もしや女郎では、と言われたそうな。

「女郎絵馬」(右)が奉納されていたのでどんなに美しく可憐な乙女かとワクワクしながら見たのだが。 うーん、どうみても可憐な乙女には見えんのよ。   


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