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浜街道  道中記

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絹 の 道 A町田市小山町から町田市辻まで 街道地図

 平成28年1月28日

絹の道 2回目はJR町田駅から橋本駅北口行きのバスに乗り御嶽堂で下車。バス停の名前になっている「御嶽神社」(左)が近いのでさっそく寄り道を。小高い丘の上の明るい感じの神社だ。 由緒が無いので詳しいことは分からない。かつては鬱蒼とした鎮守の森に囲まれた神社だったそうだが今はただただ明るい神社。

街道に戻りすぐ先の旧道に入ると辻の両側に「常夜灯と石塔」(右)が見える。常夜灯は慶応元年(1865)、石塔は苔むしており文字が読み取れないが文政10年(1827)と弘化2年(1845)の建立とか。

数分先の長泉寺参道入り口にも「石仏が2体」(左)。風化が激しく かろうじて石仏だと分かる状態だが大事にされているようだ。

参道奥の長泉寺に比較的新しい「後生車」(右)がありました。天気輪とも呼ばれているが中程の輪を回すことで死者に呼びかけることができるのだという。
ところで、グルグル回すことができる石の輪を どうやって石の柱の中に入れたのだろうか。不思議だね〜

旧道はほどなく町田街道に合流するが合流個所の向う側に見える地蔵群は「中村地蔵」(左)と呼ばれている。最初に建立されたのは中心の坐像で宝暦6年(1758)。 その後、明和4年(1768)1体、明和5年(1768)5体、安永9年(1780)2体、天明2年(1782)2体、天明3年(1783)2体と合計13体。それぞれ大飢饉、大洪水、悪病が続発した時期だった。

隣の「庚申塔・道祖神」(右)などの石塔群は宝暦から安永にかけての造立だが風化が進んでおり文字が読み取りずらい。

この先 何回か旧道に出入りしながら町田街道を東に進み桜美林学園前まで来たらちょっと寄り道を。

長い参道の先に見える「箭幹(やがら)八幡宮随身門」(左)の左右に安置されている随身像はちょっとひょうきんなお顔。 随身門が建築されたのは18世紀前半頃(徳川吉宗の頃)「拝殿」(右)は大正時代の建築であるが、その奥の本殿は総ケヤキ造りで寛政6年(1794)建立。残念ながら覆殿の中であるため拝観はできない。

当八幡宮は推古2年(616)、勅命により創建されたという古社。康平5年(1062)には奥州征伐に向かう源義家(八幡太郎義家)が戦勝祈願したとも伝えられている。

街道に戻り20分ほど歩いて上宿交差点から旧道に入ると その先は旧木曽宿。時折り車が通る静かな町並みが続いている。

旧道に入って10分ほど歩くと 「上の地蔵さん」(左) と地元の人達に長い間親しまれた延宝元年(1672)建立のお地蔵さんが鎮座(右側の地蔵)。左側の地蔵は平成に入って建立された延命地蔵。

地蔵尊の隣は貞享2年(1685)に遠州三尺防から勧請した秋葉神社だが その境内に「樹齢四百有余年という欅」(右)が。その昔、上宿に大火災があった折り、このケヤキも災難に遭遇。ところが秋葉神社の神霊宿りて蘇生し続け やがて男女両性の形態が出現。これぞ縁結び子宝の神意と崇めたという。

すぐ隣の「福昌寺」(左)は元和3年(1617)に徳川家康の遺櫃を久能山から日光東照宮へ移送の折り、休息所となった寺。境内へ入ることはできないが山門から見える銀杏は樹齢400年だという。

福昌寺から7〜8分歩き変則十字路を右に曲がると100mほど先に「木曽一里塚」(右)がある。日光東照宮へ向かう家康の遺櫃はこの一里塚前を通って日光東照宮へ向かった。

変則十字路右側の広場奥は木曽の観音様として古くから親しまれてきた「覚圓坊」(左)。  元は近江・圓城寺(三井寺)の一寺であったが観応2年(1351)に当地に移され多摩郡の霞頭となり大いに賑わったという。
この日は初不動のだるま市。朝のうちは結構な賑わいだったようだ。

道路側のフェンス際にある小さな祠の中にあったのは庚申塔。傍らの説明書きが全く読み取れないので詳細は分からない。

覚圓坊を出て4〜5分歩くと丁字路際に「下の地蔵」(右)が祠の中にひっそりと佇んでいました。

旧道はほどなく町田街道に合流するが その先が長い。次の見どころである町田の 絹の道碑まで小一時間。途中で見たものは・・・
メタボな猫だね〜 ペットクリニックの入口にいた猫は造り物。ご丁寧に瀬戸物の魚が2匹、エサになっていました。
馬頭観音塚跡碑が雪に埋もれていたが、詳しいことは分からない。
・森野交差点で浜街道を横切るのは鎌倉街道。だが、この道は古道の「鎌倉街道上道」ではなく現代の県道52号鎌倉街道
・やっと小田急線町田踏切が見えました。

踏切りを渡ると「絹の道中央通り」(左)と表示が。

その先、小田急町田駅前広場の一角に立てられているのは「絹乃道碑」(右)と説明板。
説明板には「・・・中国の古代シルクロードのように原町田中央通りは日本のシルクロードになりました。生糸をはじめ諸物資の集散地となり繁栄の基礎が築かれ・・・・・」とある。

生糸が通らなくなった今も、ここの商店街は大変な賑わいだ。
 

商店街の中ほど、浄運寺の境内左手に「武藤塚」(左)と刻まれた石碑があり説明板に夜盗塚(武藤塚)物語が記されている。その昔、名主であった武藤家に5〜6名の夜盗が押し入ったが村人たちの協力もあって夜盗達は枕を並べて討ち死に。この夜盗の亡骸を弔うため塚を築いて供養したのだという。

商店街の終わり近くにあったのは「二・六の市碑」(右)。文政・天保年間(1818〜43)頃には月6回も開かれという賑わった 二・六の市 が今日の原町田商店街繁栄の礎となる。

この先はテクテク歩いて1時間。到着した場所は町田市辻。ここは矢倉沢往還(現在の国道246号)と交差する場所。ちょっと寄り道を。

国道246号の高架を潜らず側道を左へ曲がって1〜2分。 「町田道祖神」(左)と呼ばれる石塔が2基。左の道祖神は昭和25年(1950)、右は昭和46年(1971)の建立なので比較的新しい。

国道を挟んだ向こう側には「辻地蔵と横浜道祖神」(右)。
辻地蔵は元々は浜街道と矢倉沢往還の交差する辻にあったのだが国道工事で現在地へ移転。

左の小さな石塔が横浜道祖神で こちらは昭和26年(1951)の建立。道祖神の歴史から言えばつい最近のこと。

町田辻は かつて浜街道(絹の道)と矢倉沢往還が交差した場所。今は町田街道と国道246号が立体交差。この先は町田市から横浜市に入る。

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