表紙へ戻る
①金沢八景から汐入まで
②汐入から浦賀奉行所跡まで
①金沢八景から汐入まで
街道地図
東浦賀道の旅 初回は金沢八景から。 国道16号、山中の土道、新興住宅地の区画整理された道、さらには車も
通れないような細い道や階段道、十三峠の尾根道と変化の連続だが旧道が多く残っており古道歩きの楽しみを
充分に満喫できる。ただし、山坂の連続で足腰には応える。
平成29年4月27日
旅のスタートは
「瀬戸神社」
(左)から。
治承4年
(1180)
、鎌倉に幕府を開いた源頼朝は伊豆三島明神(三島大社)の分霊を勧請して創建。北条氏や関東官領足利氏の崇敬を受け徳川家康も参拝したという。現在の社殿は寛政12年
(1800)
に建造。
神社前の道は
「旧道の東浦賀道
(六浦道)
」
(右)だが、残念ながら神社前の50m程しか残っておらずその先は消滅。 金沢八景駅前を過ぎると旧道が復活。
国道16号に出たら
「金龍院」
(左)に寄り道を。南北朝時代、鎌倉・建長寺の方崖元圭禅師が開山した古刹で、この寺にあった硯から龍が昇天したので昇天山金龍院と名付けられたという。
金龍院裏山の展望台
「九覧亭」
(右) は金沢八景巡りの旅人が必ず立ち寄った名所。昭和初期までは茶店もあったという。その眺望は平潟湾を中心に金沢八景と富士山までも。
今も素晴らしい?
街道に戻り右手の階段をを上ったところの寺院は
「泥牛庵」
(左)。寺院とは思えない寺号だが泥牛月吼という禅の言葉が由来だそうです。ちなみに山号は吼月山。
鎌倉時代末に円覚寺第11世南山士雲が隠居所として創建。
山門を入った右側の祠の中に
「地蔵尊と庚申塔」
(右)が祀られているが、この庚申塔はショケラを提げている。
六浦丁字路まで来たら右へ曲がり環状4号
(金沢街道)
に入ったら左側の旧道へ。
旧道から環状4号
(金沢街道)
に合流した向こう側に見える寺院は
「上行寺」
(左)。元は真言宗の寺であったが建長6年
(1254)
に日蓮上人が六浦の浜に到着した縁から日蓮宗に改修。
その日蓮上人の船が到着したと伝わる場所が山門近くの
「船繋ぎの松跡」
(右)。ここには昭和22年
(1947)
まで樹齢千年を超える松があったが現在の松は2代目。
本堂の手前にある巨木は日荷上人が身延山より持ち帰って植えたとされる
「榧の木で樹齢700年」
(左)。榧の木の下には日荷上人の墓がある。
上行寺から5分ほど歩いた長生寺で見たのは
「樹齢370年の椿」
(右)。寛永20年
(1643)
に植樹されたという古木も珍しいが、花びらが1枚ずつ散るという椿らしからぬ椿。
東浦賀道は長生寺前から環状4号
(金沢街道)
と分かれ左に入り侍従橋を渡ったらもう一度左に曲がっていく。ほどなく三艘橋を渡るが この辺りを三艘の津 といっていた。
その昔、三艘の唐船がこの辺りに寄港したと伝えられている。
三艘橋を渡り京浜急行線の線路沿いに右へ曲がると浅間神社下の祠の中に
「六地蔵」
(左)が鎮座。 詳しいことは分からないが真っ赤な服を着せられ大事にされているようだ。
三艘橋まで戻ると左側に
「
庚申塔」
(右)が2基。建立年は享保9年
(1724)
と寛文10年
(1670)
という古いもの。
その隣の
「三艘町内会館」
(左)に祀られているのは文殊菩薩。何故ここに?
小田原北条時代の衣笠浦郷村の領主であった朝倉能登守の守護仏・文殊菩薩が浅間神社下の文珠堂に祀られたが そこが京浜急行線の線路になってしまったため町内会館に移された。
三艘橋から5~6分、崖下の小さな祠は
「厄神様
(やくじんさま)
」
(右)。戦国時代、戦で命を落とした武士の遺骨を祠に祀ったそうだ。その後、六浦に悪い病気が流行ったが三艘村だけは悪疫から免れたことから厄神様の御加護と村人の信仰を集めたという。
街道はこの先で京浜急行の踏切を渡り国道16号に合流。その先で横浜市から横須賀市に入る。
その市境いはかつての六浦荘村
(金沢区)
と浦郷村
(追浜)
の村境い。
隣村から悪人や悪病が入らぬよう村境いに地蔵尊を祀る風習があったが その地蔵を祀った村境いの堂が
「傍示堂」
(左)。 ここには六地蔵や五輪塔、庚申塔等が多数祀られてる。
数分先の
「雷
(いかづち)
神社」
(右)は創建が承平元年
(931)
と伝えられる古社。当初は築島にあったが天正9年
(1581)
、浦郷村の領主であった朝倉能登守が現在地に移し雷神社として再興。
京浜急行追浜駅前を過ぎたら右の狭い道に入り踏切りを渡るとその先から
「良心寺」
(左)にかけては朝倉能登守が開いた浦郷陣屋が置かれた場所。この陣屋は江戸時代末期まで続いていた。
良心寺は応永年間
(1394~1428)
創建の寺院だが長らく無住であった。朝倉能登守が夫人の菩提を弔うため夫人の戒名である良心大姉から良心寺と改名し天正11年
(1583)
に再興。その
「夫人の墓」
(右)が鐘楼後ろの山の中腹にある。
参道入り口の
庚申塔
は寛文12年
(1672)
に建立にされたもの。
良心寺から5分ほど歩くと覆屋の中に石塔が並んでいるが その真ん中の石塔は
「首斬観音」
(左)
。
大正末期に国道工事を行ったところ頭蓋骨が多数発見され地元住民が供養碑を建て供養。天保飢饉の時の無頼者が処刑されたときのものではないかという。
もう少し先で国道16号に戻ったら
「浦郷トンネル」
(右)の手前から左側の階段を上がる道が旧道。
階段を上がった先は廃屋や廃屋跡が何カ所も続く寂しい山道。途中から道なき道に。
なんとか登りきると目の前は見事な
「がらめきの切り通し」
(左)。
いつ頃造られたのか詳しいことは分からないが今は忘れ去られた切り通し。このまま放置するのはなんとも勿体ない。
切通しの先は踏み跡のしっかりした
「旧道の土道」
(右)。うねうねと曲がりながら国道16号に向かって下って行く。旧道は途中から消滅しているが道成りに下れば その先は国道16号。
国道に出たら京浜急行田浦駅前を通り過ぎ船越一丁目信号まで来たら右へ曲がっていくのだが ちょっと寄り道を。
曲がらず真っ直ぐ数分、国道際の
「景徳寺」
(左)は応安2年
(1369)
の開山だが度重なる火災のため、宝寿庵の御本尊十一面観音を迎えて再建。その十一面観音には次のような言い伝えが。
昔この辺りに観音様が朱漆の船に乗られて漂着。観音様が船でお越しになった所なのでこの地の地名を船越に。
景徳寺対面山腹の
船越神社
は元々は景徳寺の守護神社である熊野神社であったが日枝神社を合併して船越神社に改名。境内端の
「庚申堂」
(右)に祀られているのは天保6年
(1835)
の庚申塔や帝釈天など。
船越一丁目で右へ曲がり坂道を上っていくと新興住宅地となり旧道は全く消滅。
住宅地の中の道を右に左に曲がりながら住宅地の外れから階段を下って行くと田浦山トンネルの脇に出て旧道に復帰。
下った先の盛福寺は江戸時代初期に鎌倉・円覚寺管長の隠居所として建てられたが2度の火災により七堂伽藍は焼失。しかし
「山門」
(左)だけは焼失を免れ創建当時の四脚門の姿を残している。
本堂脇の崖に鎮座する
「田浦稲荷」
(右)は慶長元年
(1596)
に田浦城の畠山館から盛福寺の鎮守としてここに遷座。
ほどなく国道16号に合流するがJR横須賀線のガードを潜ったら再び右側の旧道に入って行く。
JR横須賀線のガードを潜った先に、
明和5年(1768)の馬頭観音など多数の
石仏が祀られている
旧道に入って数分、崖下の祠の中に
祀られているのは文政12年(1829)の
庚申塔など。
長善寺前を通り越すと急坂の
おったさか(大田坂)。さらに上ると
階段道となる。
階段道の途中にあったのは
天保12年(1727)の道六神。
おったさか を上りきると尾根道にぶつかるが ここに
「浦賀道(十三峠)」
(左)と記された標柱が1本。この先しばらくは十三峠と呼ばれる尾根道が続くがかつては浦賀道最大の難所であった。
十三峠の緩い坂道を上りきった辺りの右側の公園に
「開拓記念碑」
(右)が建てられており碑の裏に「十三峠開拓農業協同組合」とある。戦後の食糧難の時代、20世帯が入植したのだがランプの下での寝起きという厳しい環境であった。
尾根道はほどなく下り坂となり按針塚の前に出るが ここは国指定史跡の
「三浦按針夫妻の墓」
(左)。三浦按針(ウイリアム・アダムス)は徳川家康の外交顧問であったが、元和6年
(1620)
に平戸で病死。遺言により当地に供養塔が建てられた。
周辺は塚山公園として整備されており 港の見える丘 からは横須賀港はもとよりベイブリッジや遠く房総半島まで見渡せる。
按針塚から5~6分歩き有料道路の料金所が見えたら右に下る
「琵琶首坂」
(右)に入り、坂道を一気に下って行く。
京浜急行のガード゙を潜った先に鎮座するのは応永17年
(1410)
創建の
「鹿島神社」
(左)。 寛永13年
(1636)
に三浦按針の子供が社殿を造営した旨の棟札があったそうだが残念ながら明治24年
(1891)
の火災で社殿は全焼。
現社殿は三浦按針の屋敷があった現在地に明治28年
(1895)
に再建されたもの。
神社隣の
「浄土寺」
(右)は三浦按針の菩提寺。鎌倉時代の武将・畠山六郎重忠の建立だが現在の本堂は正徳2年
(1712)
に再建されたもので横須賀市内で最も古い木造建築。
鹿島神社の横を通って国道16号に出たら次の交差点で右に曲がりすぐに路地のように狭い旧道に入っていく。
数分歩いた先の階段道が東浦賀道。
階段を上り始めて数分、コンクリートの立派な堂内には元禄11年
(1698)
銘の
「逸見子育て地蔵」
(左)を中心に数体の地蔵尊が祀られている。地蔵堂前の道は元禄の頃から人の往来が多く賑わったという。
さらに階段道を上り住宅地の中の細い道を行くと十字路に
「うらが道」
(右)と記された標柱が建てられているのでここは真っ直ぐに。
さらに数分、ブロック塀に沿って左へ曲がるのだが、ここが間違えやすい。
ブロック塀に貼られた
うらが道
という表示を見落とさないように。
左へ曲がった先で
「生垣の間の細い道」
(左)を通り、右へ左へと曲がりながら階段を下り、さらに坂道を下ると京浜急行汐入駅前。
駅前広場の一角にあったのは
「御幸橋跡碑と親柱」
(右)。明治22年
(1889)
の横須賀線が開通後、明治天皇が横須賀に行幸された際お通りになったのでこの名が付いたという。 今回の旅はここまで。
次の街道
汐入から浦賀奉行所跡
まで
表紙へ戻る