表紙へ戻る


東浦賀道 道中記

①金沢八景から汐入まで     ②汐入から浦賀奉行所跡まで

②汐入から浦賀奉行所跡まで 街道地図

今回は京浜急行汐入駅横から出発。すぐに横須賀特有の上り坂、その先も上り階段。キツ~イ スタートだ。しばらく歩いた先にも
矢ノ津坂というキツイ上り坂があるが、前回の様なアップダウンの繰り返しは少ないので足腰には楽だ。 浦賀では渡し舟に
乗る事も出来るので街道歩きにちょっとした変化が楽しめる。渡し舟を体験した後は愛宕山公園に寄り道し
、最終目的地の
浦賀奉行所跡へ。

平成29年5月11日

京浜急行汐入駅から数分、汐入小学校脇の坂道を上りさらに階段を上ると丁字路にぶつかる。ここに「うらが道の表示」(左)があり さらに右の階段を上っていくのだが 左へ曲がって寄り道を。

100mほど先の「諏訪大神社」(右)は康暦2年(1380)に領主であった三浦貞宗が信濃国の上下諏訪明神の御霊を迎えて建立。下の境内に弘化3年(1846)建立のメタボな狛犬がいるが拝殿右手の合社前になんともユーモラスな狛犬が。

丁字路まで戻り階段を上って尾根道を回り込むと今度は長い下り坂。この坂道を「うぐいす坂」(左)と呼んでいる。
かつてはうっそうとした樹木に覆われ鶯の鳴き声が絶えなかったという。坂上に咸臨丸の副艦長格であった浜口英幹の花屋敷と呼ばれた住居があったそうだが探すことはできなかった。

この先はうぐいす坂を下り県道26号を横断して旧道を進むのだが その前に「中里神社」(右)に寄り道を。鳥居の後ろに樹齢300年という銀杏の巨木がそびえている。秋になったら紅葉が見事だろう。

ほどなく聖徳寺坂に差し掛かるが この坂を下らず道路を横断して右側の側道に入ると「八百幸本店」(左)の古民家が見える。昭和初期の建築だということだが出桁造りという構造がこの辺では珍しい。

その先の聖徳寺にも珍しいものが。
本堂の対面にある「板碑」(右)は慶長15年(1610)に造立されたもの。 梵字が刻まれた板碑が多いがこの板碑には宝篋印塔が陽刻されている。このタイプの板碑は鎌倉の長谷寺と2例しかない。

聖徳寺脇を通って坂を下ったらちょっと寄り道を。

聖徳寺坂の向う側に江戸時代の建築という「永嶋家赤門」(左)が見られる。永嶋家は三浦氏の子孫と伝えられ小田原北条氏の支配下で浜代官を務め 江戸時代には三浦郡の総名主を務めた家柄であった。

赤門の右側に円柱の「道標」(右)がある。かつては聖徳寺坂下にあった道標で刻まれている文字は「右 **浦賀*」。

街道に戻り京急・県立大学駅(旧安浦駅)を過ぎると標柱に記された坂名が「どうみき坂」(左)。 山口百恵さんの「横須賀ストーリー」の一節、「急な坂道 駆け上ったら・・」の坂が どうみき坂 なのだそうだ。

その先10分ほど歩いた交差点際に建てられた標柱に記された文字は「一本松・乗合馬車立場跡」(右)。
側面の説明書きに 「ここに大きな松があったので一本松と言われ馬車・乗合自動車の発着所となっていた」 とある。

交差点を横断して5~6分先、平安時代の創建と伝わる「春日神社」(左)は古くは猿島に鎮座していたが猿島が軍用地となったことから明治17年(1884)に遥拝殿があった現在地へ遷座。
拝殿左側になんともメタボな狛犬が。 建立年が不明だが いわゆる初期型狛犬といえるだろう。

さらに10分ほど歩くと砂坂と呼ばれる緩い下り坂となるが そこの祠の中に「砂坂地蔵しらすがわ地蔵」(右)が鎮座。 最近は共に子育て地蔵として地域の信仰を集めている。

国道134号を越え7~8分、京急大津駅入り口の交差点まで来ると、東海道・戸塚宿から分かれ鎌倉、逗子を通って三浦半島を横断してきた「西浦賀道がここで合流」(左)する。

合流点近く、大津駅脇の「宿守稲荷社」(右)は正徳3年(1713)の創建と伝わっている。京浜急行線(旧湘南電鉄)開通の際、撤去されたが地域に災いが生じたため現在地に移設したという。管理は駅員が行っているのとか。


京浜急行のガードを潜った先から上り坂となるが この坂を「矢ノ津坂」(左)と呼んでいる。昔は「やんつ坂」と呼んだが雨が降れば膝下まで埋まる大変な難所。車夫や馬子泣かせだったという。

500mほど上ったあと下り坂。その途中の歩道際に石塔が並んでいる。7基の石塔はすべて「馬頭観音」(右)で嘉永5年(1852)、明治42年(1910)や大正6年(1917)などの文字が読める。

坂を下りきった所が京急浦賀駅前。駅前を右に曲がると見える巨大な建物は「浦賀造船所跡」(左)。浦賀造船所は一世紀以上に渡って約1000隻の船を造ってきたが平成15年(2003)に閉鎖された。

建物の右端に「屯営跡」(右)の説明板がある。これによると「水兵の教育機関として明治5年(1872)に設立された」とあり「屯営跡の碑」が在るということだが その碑は造船所の中、見ることはできない。

浦賀警察署手前の石碑は「大衆帰本塚の碑」(左)。
元治元年(1864)に建てられたもので湊の賑わいに伴う宅地開発の際出てきた無縁仏を供養しようと時の浦賀奉行・大久保土佐守によって塚が設けられた。

県道から別れた「浦賀道」(右)は車の通りも少なく静かな町並みが続く。途中にあった浦賀道説明板に次のような内容が。「幕末期、ペリーの黒船来航の際は大勢の武士や見物人がこの浦賀道を通った」。

ほどなく「西叶神社」(左)に到着。文覚上人が源氏再興を発願し養和元年(1181)に京都・石清水八幡宮の御霊を勧請して建立。源氏再興が叶ったことから叶大明神と。

叶神社隣の「東福寺」(右)は徳川家康が江戸に入城した際に三浦半島の代官となった長谷川七左衛門によって禅宗の寺に改宗。このことから浦賀奉行は就任すると必ず仏参したという。
本堂には酒井抱一が描いた亀の絵馬が展示されている。

湊町として発展した浦賀には100軒を越える廻船問屋が軒を並べたが、街道沿いに建つ千本格子の古民家は「旧廻船問屋の富井家」(左)。

西叶神社に参拝したら東叶神社にも参拝しなければ。ということで東叶神社に向かうのだが ここは渡し舟が便利。すぐ先に浦賀湾を横断する渡し舟「愛宕丸」(右)が就航している。陸路を歩けば40分近く掛かるが渡し舟なら僅か5分。
東西両叶神社を結ぶ渡し舟とはロマンありますね~

「東叶神社」(左)も文覚上人が京都・石清水八幡宮の御霊を勧請して創建されたとされるが別の伝えによれば、元禄5年(1692)に幕府の政策で浦賀村が東西にに分けられたが そのとき西浦賀村の叶神社を遷して祀ったとも伝わっており、西の本宮、東の若宮とも云われていた。

参道石段の両脇に植えられている「蘇鉄」(右)は源家再興の折り、源頼朝が伊豆より移植奉納したと伝えられている。

帰りも渡し舟に乗ったが浦賀湾の渡船は歴史が古く享保18年(1733)の東浦賀明細帳に渡船の記述がある。

思わぬ寄り道をしてしまったがもう一か所寄り道を。向かった先は明治24年(1891)に開園した愛宕山公園。
長い階段を上ると「咸臨丸出航の碑」(左)がある。安政7年(1860)1月、咸臨丸で浦賀を出航した勝麟太郎以下90余名の乗組員は米国での大任を果たし万延元年(1860)5月に帰航。

その先の石碑は「与謝野夫妻の文学碑」(右)。
  黒船を恐れし世などなきごとし 浦賀に見るはすべて黒船 寛
  春寒し造船所こそ悲しけれ 浦賀の町に黒き鞘懸く  昌子

街道に戻り10分ほど歩いた丁字路際に鎮座するのは「為朝神社」(左)。 寛政12年(1800)、地元の漁師が海から引き揚げた木像を地蔵堂に安置したがその像は鎮西八郎為朝の像であったという。

その先数分で「浦賀奉行所跡」(右)に到着。
享保5年(1720)に下田から浦賀に移された奉行所は慶応4年(1868)までの150年間続いたが今は何も無い。 
と思っていたら奉行所を囲む堀の石垣が残されており僅かに往時を想像させてくれる。

ここまで来たのでもう一か所寄り道を。

谷戸の奥にひっそりと佇む寿光院の墓地に咸臨丸の副艦長格で花屋敷の主であった「浜口英幹と奥様の墓」(左)がある。
 
地蔵堂の後ろには江戸湾警備に当たった会津藩士・小林栄三郎の母「美都姫(みつひめ)の墓」(右)や会津藩士の墓も。

前半は坂道が多く足腰には厳しかったが往時の面影が多く残っており楽しく歩く事ができた東浦賀道であった。

前の街道金沢八景から汐入までに戻る    表紙へ戻る