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姫街道の旅 2回目の後半は落合橋を渡って気賀宿から天竜浜名湖鉄道の西気賀駅まで。
長坂の旧道を下り落合川(都田川)を渡ると気賀宿。 気賀は箱根関、新居関とともに東海道三大関所と言われた
気賀関所があったところ。往時の本番所建物が一部ではあるが残されている。また街道からはちょっと外れた
場所だが気賀関所が復元されているので見学すれば街道歩きの楽しみが倍増。 気賀宿を出て2回ほど山越え
をすると西気賀駅の近くに下って来るので今回の旅はここまで。 |
長坂の旧道を下り落合川(都田川)を渡るといよいよ気賀関所があった気賀宿。 |
 落合橋の右袂に「宝生地蔵菩薩」(左)が小さなの祠の中に。光背に「右はままつへ三里半 左秋葉道宮口へ二里 二俣へ四里」と刻まれているようだが読み取るのが難しい。
天竜浜名湖鉄道のガード下を通り気賀四つ角まで来ると交差点向うに気賀関跡碑と気賀関所本番所説明板が建てられており、路地を右に入ると「気賀関本番所建物」(右)が見られる。関所は慶長6年(1601)に設けられ茅葺の関屋が建てられたが寛政元年(1789)に改築された。その一部が写真の建物で特徴的なのが切妻破風作りの屋根と狐格子。 |
 その先の右手、気賀小学校一帯は「旗本近藤家の陣屋跡」(左)。近藤家は気賀の領主で気賀関所も管理していた。説明板の後ろにある大木は陣屋の庭に植えられていたという椎の木で、実がとても大きく毎年幕府に献上しており江戸椎と呼ばれていたのだとか。
小学校前の駐車場に沿って左に回り込むと「お姫様と大工の恋」と記された説明板が。「近藤家の美しい姫様が出入りの大工に恋をし駆け落ちを試みたが失敗。その後、姫様は泣く泣く江戸の屋敷に引き取られた」という他愛ない話でした。
彼方に「合掌造りのような民家」(右)が。 思わず1枚。
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 小学校前の坂道を下り街道を横断した先に「赤池様公園」(左)というポケットパークがある。ここは明応7年(1498)の地震で発生した大津波で新居町の角避比古(つのさくひこ)神社の御神体が赤池の地に流れ着いた場所だという。
公園の先に水路があるが、ここは気賀関所警備のために造られた「御要害堀」(右)。長さ三百九十間(約700m)ほどで渡り場が2ヵ所あったが厳しい定めがあり舟提札を持たないと通ることができなかったという。 |
 街道に戻り数分、右奥の「細江神社」(左)は先ほどの赤池に流れ着いた角避比古神社の御神体が祀られている。流れ着いた御神体は仮宮に安置されていたが永正7年(1510)にこの地に社殿を建て気賀の総氏神様として祀ったのが細江神社の始まり。地震の神様として崇められている。
摂社の中に「藺草神社」(右)というちょっと変わった神社がある。宝永4年(1707)、遠州地方に大地震があり押し寄せた高潮で浜名湖沿岸の田に塩が入り稲は全滅。この時、領主であった近藤縫殿助用随公が藺草(いぐさ)の栽培を奨励。これが特産品となったことから用随(もちゆき)公の徳を讃えて創建。 |
 細江神社の先に見える東林寺は貞観6年(864)に僧行基によって開創されたとされる古刹。その「山門」(左)は江戸時代初期の作。本山法光寺に建てられたものだが嘉永7年(1854)に東林寺に下賜されたもの。
東林寺前の姫街道歴史民俗資料館前に展示されている小さな建物は「旧山瀬家の産屋」(左)。説明板に「お産中の女性は家族と離れ産屋で生活していた。煮炊きに使う火も家族とは別だったという。この建物は江戸時代末に建てられ明治の初め頃まで使われていた」とある。 |
細江神社裏から民族資料館脇を「犬くぐり道」が通っているがうっかり見逃してしまったのが残念。 |
 街道に戻り数分、NTT細江ビルの辺りは「気賀宿本陣中村家跡」(左)。気賀は天正15年(1587)に宿として定められ東海道本坂通の最も重要な宿場となったが、その本陣を務めたのが中村家。 雄踏町の中村家は徳川家康の次男秀康が生まれた家であるが
その中村家の次男与太夫が気賀の代官となり、後に本陣を務めている。
本陣跡の斜め前が本陣公園。その左端の祠に収められているのは寛政12年(1800)造立の「馬頭観音」(右)。 |
 本陣公園向かいの正明寺は本陣中村家の菩提寺だが 本陣危険時の御退場寺にもあてられていた。その「山門」(左)は服部小平太が祀られその後 廃寺となった宗安寺の山門を移築したもの。
気賀関所が復元されているというので街道から外れるが寄り道を。
ふるさと創生事業の資金を基に復元された施設で、冠木門・「本番所」(右)・向番所・遠見番所・町木戸門などが復元されており ごく簡単な食事もできるので休憩がてらの見学をお勧め。
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 再び街道に戻り数分、かつて桝形があった場所に「秋葉常夜灯」(左)が。気賀宿は東に関所があり、西に桝形石垣と門が設けられていた。その中に本陣、旅籠など民家百軒ほどで町並みを作っていたが この常夜灯は安政4年(1857)に地元の若者たちが願主になって建てられたもの。
そのすぐ先に 獄門畷 と呼ばれる場所がある。永禄12年(1569)、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと築かれた堀川城に2千人が立てこもったが落城。捕えられた七百人もの人々が首を討たれ近くの小川の土手に晒し首にされたという。その場所が獄門畷と呼ばれており「堀川城将士最期の地碑」(右)が建てられている。 |
 右へ入って100mほど先の細い道を上りきった所に鎮座するのは「姫地蔵」(左)。天和2年頃(1682)、領主近藤家のお姫様に出来物ができたが、このお地蔵さんにお願いするとやがて治ったことから姫地蔵と呼ばれるように。
街道に戻り数分、鳥居奥の階段参道を上ると諏訪神社があり その隣は全徳寺。
緩い坂道を下っていくと丁字路際に公園があるがここは「呉石学校跡」(右)。入り口に藺草栽培を普及させた近藤家六代・用随(もちゆき)の銅像があり、広場の奥には藺草栽培の歴史が写真付きで紹介されている。 |
この先で再び三叉路となるがここに是より金地院五丁と刻まれた道標が建てられているので、ここを右へ |
 呉石学校跡から7~8分、左手奥の「二宮神社」(左)には次の様な伝説が。「南北朝時代、この地の豪族井伊道政のもとに滞在していた宗良親王が京に向かって出陣。ところが見送りにきた妃の駿河姫がこの地で急死。親王の御座所があった所に社殿を建て姫が持っていた鏡を祀って二宮神社とした」と伝わっている。
さらに4~5分歩くと「吾跡川楊(あとがわやなぎ)」の案内表示があったのでちょっと寄り道を。
5分ほど歩くと川沿いの土手上に「万葉歌碑」(右)が。 丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅 亦生云 余跡川楊
霰降り 遠江の 吾跡川楊 刈れども またも生ふとふ 吾跡川楊 恋歌ですかね。 |
街道に戻ったら突き当りの丁字路を右折し50mほど進んだら左側の細い上り坂を山中へと入っていく。 |
 数分上ると「山村修理の墓」(左)がある。今川義元の家臣であった山村修理は徳川家康の遠江侵攻に対し堀川城に立てこもったが陥落。捕えられた七百人もが首を討たれたが首尾よく逃げ切った修理はこの地で切腹したと伝えられている。
そのすぐ先にあったのは「山田一里塚跡碑」(右)。ここは日本橋から69里。
句集 誹風柳多留 にこんな句が。 くたびれたやつが見つける一里塚 |
 山道を下り集落に入ったところにある小さな池は「ダイダラボッチの足跡」(左)。琵琶湖を掘った土を運んで富士山を造ったという伝説の巨人ダイダラボッチの足跡に水が溜まってできた池なんだって。
この先に山田道祖神と馬頭観音があり、道は再び上り坂。上りきる少し手前に「清水みのる歌碑」(右)が。
尋ねようもない幾年月の流れの中で 姫街道は今も静かに息づいている
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 歌碑の先あたりから「浜名湖」(左)が一望できるが ここ小引佐は姫街道の中でも群を抜く景勝地。江戸時代の旅人もこの景色を眺めて峠越えの疲れを癒したことだろう。
街道はこの先の三叉路を左に入り坂道を下って行くが左に入った所に「賽神と石仏が4体」(右)。この先は石畳の道を右に左にと曲がりながら下っていく。
10分ほど下ると岩根の集落に入るが すぐそばに天竜浜名湖鉄道の西気賀駅があるので今回の旅はここまで。 |
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