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旅人 人見街道 道中記
人見街道道標

①大宮八幡宮から三鷹市役所前まで  ②三鷹市役所前から八幡町まで

大宮八幡宮から三鷹市役所前まで           街道地図

人見街道道標
人見街道の旅 スタートは大宮八幡宮から。八幡宮を出て20分ほど歩くと井ノ頭通りと交差する。その先からは
都道14号を西へ。 京王線久我山駅の手前で都道14号と分かれ駅北側の旧道に入って行くが再び都道に合流。
牟礼から先は路線名が都道110号に変わるが街道名は人見街道のまま。ほどなく三鷹一小前交差点に差し掛か
るがここを右に曲がり新川を通って三鷹市役所前までが今回歩いたコース。
距離は8kmほどで比較的軽い街道歩きであった。。。。。

平成30年8月17日

大宮八幡宮樹齢400年の菩提樹京王井の頭線西永福駅を降りて10分ほど歩き「大宮八幡宮」(左)に到着。神社の歴史は大変古く、源頼義が奥州平定へ出陣の際この地で白雲たなびく瑞祥を見て勝利の霊感を感じ奥州へ。奥州からの帰途、源氏の氏神である八幡神を祀ったのが起源であるという。時は康平6年(1063)であった。

境内左手に「菩提樹の大木」(右)があるが この木は松平秀康(家康の次男)の側室・清涼院が当宮参拝の折りにお手植えされたと伝えられている。
境内左奥の若宮八幡神社前に明和8年(1771)に造立されたという なんとも愛嬌のある狛犬が。

南参道入り口の鳥居前まで戻ったら人見街道の旅 出発。 だが鳥居脇から高千穂大学前までの道は人見街道ではない。5~6分歩いた先の変則四差路の左の道が人見街道。

ケヤキ並木松林寺井之頭通りを横断して4~5分、マンションの前に「ケヤキ並木」(左)があるが これは旧横倉邸の屋敷林跡。この先にも武蔵野台地の面影残す屋敷林が何カ所かで見られる。

その先5~6分、街道から一歩入った「松林寺」(右)は文禄2年(1593)の創建。室町時代中期の板碑が保存されているとのことだが残念ながら見つけることはできなかった。

庚申塔旧道入り口環状8号を越えて15~16分、三叉路際に「道標付庚申塔」(左)が。この庚申塔は享保7年(1722)に造立されたもので側面が道標になっており 「これよりみぎいのかしら三ち」「これよりひだりふちう三ち」 。庚申塔は道路工事などで移されることが多いがこの庚申塔は当初からここにあったという。

数分先の三叉路は「右に入る道が旧道」(右)。旧道に入り数分「馬車みち」と表示されたバス停があるが、ここは明治の頃、井の頭行きの馬車が通っていた名残り。

旧道は京王線久我山駅の北側を通って踏切りを渡って行く。

久我山稲荷神社ケヤキの大木踏切りを渡って数分、右手の階段上は「久我山稲荷神社」(左)。創建年代は不明だが古来から久我山村の鎮守で、新編武蔵風土記稿に当社の記述がある。参道入り口の鳥居には文政2年(1819)の銘が。

稲荷神社を出て神田川に架かる宮下橋を渡り坂道を上ると先ほど分かれた都道の人見街道に合流。
その先も緩い坂道を上ると彼方に「ケヤキの大木」(右)が。その根本にあったのは元禄13年(1700)庚申塔
ここは行政界で、これまでは杉並区であったが この先からは三鷹市。

どんどんはし碑どんどん橋人見街道の新道はケヤキの下を真っ直ぐ進み牟礼橋を渡って行くのだが橋の手前を右に曲がると旧道が残されている。曲がった所に並んでいる石碑は宝暦7年(1757)の石橋建立供養之碑と「どんどんはし碑」(左)。石碑のすぐ先が「どんどん橋」(右)で下を流れる川は玉川上水。人見街道の旧道はどんどん橋を渡って新道を横断していく。
 コメント:その後道路整備が行われ新道へは行けなくなった。

ところで「どんどん」って何? ということだが水が勢いよく流れる様を子供たちがこう呼んでいたという。その どんどんはし碑 は道標になっており刻まれている道筋は「右 ふちうみち」「左 ?どみち」。

どんどん橋を渡り新道を横断して数分歩くと都道に合流するが その合流点に御嶽神社があるはず。だが、無い。近所の人の話では講元が高齢化し管理できなくなったので3年ほど前に神社を撤去してしまったのだという。こんなこともあるんだね~。この先で古峯神社、眞福寺に立ち寄って牟礼2丁目交差点へ。

常夜灯牟礼神明社その前にちょっと寄り道を。向かった先は「牟礼神明神社」(左)。天文6年(1537)、深大寺城にたてこもる上杉家の家臣難波田弾正に対峙してこの地に砦を築いた北条綱種が守護神として芝の飯倉神明宮の御分霊を勧請。 以来、村民から五穀豊穣の神様として崇敬されている。

参道入口の「巳待講常夜灯」(右)は嘉永3年(1850)の建立だが竜の浮き彫りが見事。 元々は連雀通りと井の頭道の分岐点(現牟礼2丁目交差点付近)にあったもので井の頭弁財天への道標を兼ねて巳待講中が寄進したもの。

供養塔と地蔵尊庚申塔牟礼神明神社を出て牟礼2丁目交差点までくると交差点向う側に「道供養之塔と地蔵尊」(右)が。橋供養塔はよく見かけるが道供養塔は珍しい。「人に踏まれてかわいそうに」と建てられたもので文化9年(1812)の建立。
牟礼神明神社で見た巳待講常夜灯はこの交差点にあった。

人見街道はこの交差点を左に曲がって行く。
4~5分歩いた先の火の見櫓の下に「庚申塔が2基」(右)。傍らの説明碑に「交通安全祈願のため神木大欅 樹齢参百年を伐採し堂宇を再建す」とある。庚申塔は元禄3年(1690)と元禄5年(1692)に造立されたもの。

高橋亭之助墓三木露風墓
庚申塔と反対側の道を入った先の大盛寺別院墓地に「高橋亭之助墓」(左)がある。高橋亭の助の先祖は牟礼の開祖高橋家。明治初期三鷹村の教育における先駆け者の一人であった。

道路を挟んだ反対側の墓地に眠っているのは童謡「赤とんぼ」の作詞者「三木露風」(右)。生まれは播州龍野藩(現・兵庫県龍野市)だが昭和3年(1964)に牟礼に移り住み詩作と井之頭公園の散策にふけっていた。

地蔵尊庚申塔街道に戻るとしばらくは坦々とした道が続くが ほどなく右からの道に合流。その合流点に「三鷹市下連雀の歴史」と記された案内板がある。 明暦3年(1657)の振袖大火による神田連雀町の被災者が幕命で移住させられたのが神田連雀新田、後の下連雀。案内板がある場所は下連雀の南端。

その先の丁字路で左から来る六郷田無道に合流して右へ曲がっていく。曲がって数分、新川宿公会堂前の祠の中に祀られているのは享保4年(1719)造立の「地蔵尊」(左)。その先の祠には三百年以上前の元禄5年(1692)に造られた「庚申塔」右)が。公会堂の裏には新川八幡神社と祖師堂が並んでいる。

高場標石庚申塔三鷹市役所裏の林の中に建てられている石塔は「鷹場標石」(左)。鷹場の区域を示す明和7年(1770)頃に建てられた石杭で、元々ここにあったのではなく移設・展示しているもの。 辛うじて ****尾張殿鷹場 と読み取れる。

市役所の斜め向う側にあるガソリンスタンドの一角に天文2年(1737)造立の「庚申塔」(右)が見える。コンクリート壁で守られているがちょっと肩身が狭そうだ。

今回の旅はここまで。この後はバスで三鷹駅へ。

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