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五日市街道  道中記

①梅里から小金井公園②小金井公園から砂川七番③砂川七番から福生④福生から五日市

② 小金井公園から砂川七番まで 街道地図

玉川上水の北側を西進してきた五日市街道だが喜平橋から先は玉川上水の南側に変わる。その先20分ほど歩くと
小川水衛所跡があるが街道はここで玉川上水と別れ街中の道を歩く事に。 五日市街道特有の直線道路がどこまでも
続きちょっと単調な街道歩きとなってしまうが それでも厭きない程度の距離に寺社仏閣や石仏などが見られる。

 平成26年11月24日

二日目のスタートは小金井公園前から。公園入口でカメラを空に向けて写真を撮る人が何人も。近寄ってみると「皇帝ダリア」(左)が真っ盛り。思わず一枚。

公園そばの真蔵院境内に「川崎平右衛門供養塔」(右)がある。 押立村の名主であった平右衛門は元文3年(1738)の大飢饉の際、私財を投じて村民を救助。その後も武蔵野新田八十二か村の復興に尽力したことから農民たちが生前の徳を偲んで寛政7年(1795)にこの供養塔を建立。
  コメント:道路際の石塔は秩父・坂東・西国百番供養塔

この先の五日市街道も「玉川上水沿いの遊歩道」(左)をてくてくと。ほどなく現れたのは擬木の「陣屋橋」(右)。

玉川上水が完成したことで武蔵野原野の開拓が大きく進み八十二か村の新田村が誕生。その新田村世話役・川崎平右衛門の手代高木三郎兵衛が常駐していた陣屋がこの近くに置かれていた。
その陣屋から真っ直ぐ南に伸びる道が陣屋道で その途中の玉川上水に架かる橋が陣屋橋。

さらに進むと1本の松が見えるが ここは「御成の松跡」(左)。玉川上水の桜並木は江戸近郊随一の花見所。
天保15年(1844)、将軍徳川家定一行が花見に訪れたがそれを記念して黒松が植えられたという。
残念ながら平成6年に枯死。現在の松は2代目だろうか。

その先の小金井橋交差点を渡ると「名勝 小金井桜碑」(右)が建てられている。元文2年(1737)、川崎平右衛門が玉川上水両岸6kmに渡って植えた桜は花見の名所となり江戸から多くの花見客が訪れるようになった。

「明治30年代の小金井橋の花見風景(左)(彩色写真)が説明板に掲載されているが橋の上に多くの花見客が。 写真の右手建物は花見茶屋柏屋だが、現在はガソリンスタンドに変わってしまった。

その先で見られるのは「行幸の松」(右)と行幸の松由来の碑
明治14年(1881)、騎馬で行幸された明治天皇がここで観桜。これを記念して村人が植樹したのがこの松。
コメント:小平市教育委員会の説明板には明治16年(1883)行幸と記されている。
 小金井桜説明板から抜粋

行幸松の道路反対側、参道奥の茅葺屋根は「海岸寺山門」(左)。天明3年(1783)の建築と推定される山門の天井には竜の絵が描かれていたということだが、残念、今は見えない。

ところで海から遠い小金井に何故海岸寺? 寺の由緒書きを読むと「寺が欲しいという農民の要望に、越中(富山県)国泰寺の末寺であった海岸寺の引寺に成功した」とある。 
参道入り口の石碑は文化7年(1810)建立の「小金井桜樹碑」(右)。刻まれているのは小金井桜の由来など。

 再び遊歩道をてくてくと。

ほどなく見えたのは「茜屋橋」(左)という なんともロマン溢れる名前の橋。 説明碑によると最初に架けられたのは明治初年(1868)で3本の丸太を渡した簡単なも。 では何故 茜屋橋なのか。かつてこの辺りは茜草(染料)の栽培が盛んで、その総元締めの島田家を茜屋と呼んでいたが その茜屋が架けた橋なので茜屋橋。ロマンとはちょっと遠いかな。

景色が変わってきたなと思っていたが理由は「上水沿いの欅並木」(右)。思い切り成長した欅が林のようになっている。

ほどなく「喜平橋際」(左)に到着。道路表示がちょっと変だが実は街道はここで喜平橋を渡って玉川上水の南側に移るのであった。喜平橋とは人の名前のような橋であるが、野中新田の組頭・喜兵衛さんの家の近くにあったので喜兵衛橋。いつの頃からかは不明だが喜平橋と変わってしまった。

橋を渡った南側の歩道は遊歩道というほどではないが「草道」(右)となっているところがいいね~。

喜平橋を渡って草道を10分、街道際の鳥居奥は「稲荷神社」(左)。この神社は野中新田の組頭・六左衛門らが元文元年(1736)に産土神として勧請遷祀したと伝えられている。

稲荷神社と反対側の道路に入ると「八左衛門橋」(右)という、またまた人名が付いた橋が。 旧小川新田の旧家で組頭の滝島八左衛門が架けた橋なのでこの名が。

街道に戻り西武多摩湖線を横断して10分、七曲り以来久し振りに旧道を歩くことが出来る。現・五日市街道は緩く左へ曲がっていくが「旧道」(左)は脇道を真っ直ぐ進んでいく。

脇道を入ったすぐの右下は玉川上水の「小川水衛所跡」(右)。境水衛所と同じ機能を持った施設で江戸時代は水番所と呼ばれ水番人が常駐して水量の管理や落ち葉の除去などを行っていた。
玉川上水は明治以降も都民の水道用として使われていたが、小川水衛所は昭和55年(1980)に閉鎖。

玉川上水に沿っていた五日市街道だがこの先で上水は右に、五日市街道は左に曲がって見事な字型に分かれていく。


旧道に入ってすぐの右側に見えたのは「上鈴木不動尊」(左)。詳しいことは分からないが上鈴木新田の守り神だったのだろう。境内左手の石塔群の中に寛政3年(1791)建立の笠付の百番供養塔が見える。

その先の長ーい白壁はどこぞのお屋敷かと思ったら日本料理の四季亭であった。

突き当りを左に曲がり数分歩くと現・五日市街道に合流するがその手前、生垣の中に見えたのは「石仏3体」(右)。年代は不詳だが江戸時代からこの場所にひっそりと佇ずんでいたのだろう。

現・五日市街道に入って数分、先ほどは上鈴木不動尊だったが今度は「上鈴木稲荷神社」(左)。 享保8年(1723)、新田開発の際に親村である貫井村(現・小金井市貫井)から勧請し鎮守として遷祀。

街道に戻り西武国分寺線を渡り神明宮を右に見ながらてくてくと。
フっと見えた路地の奥に凄い柿の木が。何百、いや何千?かもしれないほどの実が生っているではないか。
あまりに見事だったので思わず1枚。

その先、右手の鳥居奥は「愛宕神社」(左)。ここも新田開発に伴う神社で榎戸新田の氏神様として享保10年(1726)に創建。

街道に戻り5~6分、妙法寺の本堂前に「川崎・伊奈両代官謝恩塔」(右)が。
新田開発は凶作などで農民が大変窮乏したが代官川崎平右衛門や伊奈半左エ門らが善政を行ったことで新田は大いに進展。 寛政11年(1799)、八十数ケ村の感謝の結晶として建立されたという。

程なく立川市に入り砂川何番という町名が目立つようになるが砂川十番(現・若葉町)の街道際に「十番組地蔵堂」(左)が。
新田開発が行われていた頃、全国を行脚する旅僧の遺言でお地蔵様を建立したという。ところが昭和二十年代(1945~)に不届き者が地蔵様を盗んでしまったのだとか。その後に再建されたという「お地蔵様」(右)はちょっと下膨れのお顔がユーモラス。

地蔵堂隣の石塔は出羽三山碑。
この先は見どころが少ないが街道際に馬頭観音や石仏がぽつぽつと。


立川に入り砂川八番交番前交差点まで来ると五日市街道から分かれる道路に「江の島道」(左)と表示が。あの江の島? 湘南の江の島まではちょっと距離がありすぎるが。
調べたところ、この先の田村道から大山道を通って江の島参詣に使われたことから江の島道と呼ばれたらしい。

ほどなく「芋窪街道との交差点(砂川七番)」(右)に到着。本日の五日市街道歩きはここまで。上を通っているのは多摩都市モノレールでこの駅は砂川七番。

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