表紙へ戻る


鎌倉街道中道

 ①鎌倉から柏尾    ②柏尾から中山  ③中山から溝口   溝口から二子の渡し   二子橋から渋谷   渋谷から抜弁天(新宿余丁町)   抜弁天から東池袋  ⑥東池袋から川口宿

① 鎌倉から柏尾まで            街道地図

これから鎌倉街道中道を埼玉県・川口まで歩くのだが、まずは「修復が完了した段蔓」(左)を通って鶴岡八幡宮へ。
真新しい灯篭が並び、まだ歴史の重みが感じられないが これから徐々に良くなっていくことだろう。

鎌倉街道の起点は厳密に決まっているわけではないので鶴岡八幡宮参道を横切る流鏑馬道を旅のスタートとした。
北鎌倉までは古刹を訪ねながらの観光気分。舞岡公園から先は大規模宅地開発が行われたため旧道がはっきりしない。
歩いても歩いても新興住宅地。ところが日限山から柏尾町にかけては ここが横浜市内かと思えるような山中の土道を
歩くことになり、その変化が楽しめる。
 鎌倉街道中道のルートは芳賀善次郎著「旧鎌倉街道探索の旅 中道編」を参考にしました。

 平成28年12月6日

段蔓を通って 三の鳥居 を潜り 長い参道先の階段を上ると「鶴岡八幡宮」(左)。京都の石清水八幡宮を勧請し創建されたのが康平6年(1063)、源頼朝が治承4年(1180)に現在地へ遷座。千年後の今も多くの観光客で大変な賑わい。

旅のスタート前に源氏池に浮かぶ中の島の「旗上げ弁財天社」(右)に旅の安全祈願を。 
源頼朝旗上げに際して妻の北条政子が建立したと伝えられている。

鎌倉街道下道を歩いた際は参道途中から右へ曲がって流鏑馬道に入ったが今回は左に曲がって「流鏑馬道」(左)へ。
流鏑馬道から県道21号に入り右へ曲がって100m、左へ入る上り坂があるが、ここが鎌倉七口の一つ巨福呂坂の旧道。

旧道に入って数分、山肌を斜めに上っていく階段道は「青梅聖天社参道」(右)。階段上の堂内に祀られているのは双身歓喜天。巨福呂坂(こぶくろさか)を往来する旅人の安全を願って祀られたのだとか。

その先20mほどの所に庚申塔や道祖神などの石仏・石塔が多数。旧道は残念ながら100mほど先で藪の中に入り消滅。

県道に戻るとほどなく「巨福呂坂トンネル」(左)。近くに巨福呂坂切通しがあったのでこの名が付けられたのだとか。

トンネル先の「円応寺参道」(右)を上ると運慶の作とされる閻魔大王座像が見られる。
運慶と閻魔大王の間には面白い関係が。円応寺のパンフレットによると
運慶は頓死して閻魔大王の前に引き出されましたが閻魔大王に「もし汝が我が姿を彫像し その像を見た人々が善縁に趣くのであれば汝を娑婆に戻してやろう」 といわれ現世に生き返された運慶が彫刻したと言われています。

円応寺のすぐ先は鎌倉五山第一位の建長寺。 鎌倉幕府五代執権北条時頼が建長5年(1253)に建立した禅寺。 建長汁(けんちん汁)は建長寺発祥の精進料理。

建長寺は文化財の宝庫。入り口の総門は天明3年(1783)に建立された京都槃舟三昧院の門を移築。
その奥の重要文化財である「三門(三解脱門)(左)は安永4年(1775)の再建で別名「狸の三門」と言われている。

「唐門」(右)は唐破風造り漆塗りの四脚門。寛永5年(1628)、二代将軍秀忠夫人(お江の方)の霊屋の門として建立されたが正保4年(1647)に建長寺に寄付されたもの。その他にも多数の文化財建物が見られる。
詳細はこちらをご覧ください。  建長寺のHPはこちら。

建長寺を出て数分、街道際の階段を上った先は足利尊氏が建武3年(1336)に創建した長寿寺。後に子の基氏が七堂伽藍を建立したが僧堂も備えた大寺だった。平日は内部の見学ができず「山門」(左)まで。 この門は江戸後期に造られた茅葺の四脚門だが なかなか味がある。

横須賀線踏切を渡ったすぐ先、左奥の浄智寺は鎌倉五山第4位。29歳で没した北条時頼の三男・宗政の菩提を弔うために創建。苔むした参道の先に見えるのは鎌倉では珍しい「鐘楼門」(右)。

縁切り寺で有名な東慶寺にも寄り道を。北条時宗夫人の覚山尼が時宗の菩提を弔うために弘安8年(1285)に開創。明治に至る600年もの間、縁切り寺法を守ってきたという。

花の寺 としても人気ある東慶寺の「山門は茅葺」(左)。

境内左手の 「鐘楼」(右) も茅葺だが この鐘楼は大正5年(1916)の建設。だが、下がっている梵鐘は材木座の補陀落寺から移されたもので観応元年(1350)に鋳物師の物部光連によって鋳造されたもの。

北鎌倉駅裏の円覚寺は鎌倉五山第2位。弘安5年(1282)、執権北条時宗が蒙古襲来による殉死者を弔うために建立。 
階段上の「三門」(左)は天明5年(1785)に再建されたものだが掲げられている扁額は伏見上皇(1287~98)から賜ったもの。

三門に続く仏殿に安座している御本尊は冠を被ったお釈迦様。「宝冠釈迦如来像」(右)と呼ぶそうだがお顔は弘安5年の作、火災で焼失した体部は寛永2年(1625)に補造されている。
  円覚寺のHPはこちら

街道に戻り北鎌倉駅前を通り過ぎて数分、小袋谷川に架けられた小さな橋は鎌倉十橋の一つ「十王堂橋」(左)。その昔、この近くに十王堂があったのでこの名が付いたという。

さらに十数分歩いた先の橋は「水堰橋」(右)。鎌倉街道は手前を右に曲がるのだが この橋名には幾つかの云われが。
その一つ、鎌倉に駆け付けた武士達は ここで勢揃いして隊列を整えた。その勢揃いが訛りに訛って「せいしく」に。
さらに訛って すいせき=水堰 だとか。 訛りすぎ  橋際に建てられているのはせゐ志しく橋碑と観音道標

水堰橋手前を右に曲がりJR横須賀線の踏切を渡ると見えたのは茅葺の「成福寺山門」(左)。この寺は三代執権北条泰時の子、泰次によって開かれた鎌倉で唯一の浄土真宗の寺。ここには映画・寅さんシリーズで知られた 柴又帝釈天の御前様であった俳優・笠智衆が眠っている。

十分ほど歩くと交差点向う側の祠は「離山富士見地蔵尊」(右)。 その昔、三つの独立した山があったことから 離れ山 と呼ばれたそうだが その一つ、地蔵山にあったので離山富士見地蔵尊。

離山富士見地蔵尊と刻まれた標柱の側面に刻まれた文字は旧鎌倉街道中ノ道。旧道はその前の住宅地の中の細い道だが十数分歩くと大きな工場に阻まれて消滅。ここはちょっと迂回を。

旧道に復帰したら青木神社入口の信号を右に曲がると道路際に「石塔が3基」(左)。真ん中の石塔は道標になっており「今泉不動明王道 是ヨリ一里」と読める。右側にも「今泉山不動」と。今泉不動とは鎌倉の「称名寺・今泉不動」のことだろう。

駐車場を横切って青木神社下へ来ると、なんと「見上げるような階段」(右)を上らねばならない。やめようか、と思ったが一人の男性が上っていくではないか。これは上らぬ分けにはいかぬ。114段ありました。

青木神社から街道に戻り数分、道路際に「笠間の庚申塔」(左)と呼ばれる4基の庚申塔が並んでいる。左から延宝8年(1680)、正徳4年(1714)、文政6年(1823)、万延元年(1860)の建立。

さらに4~5分、法安寺の入口に道標を兼ねた「今泉村不動」(右)が。 宝永7年(1710)に建立されたもので ちょっと分かりずらいが道標には「今泉村不動 江之道」と。
さきほども今泉不動への道標があったが かつてはお不動様にお参りする人達が多かったのだろう。

環状4号の笠間交差点を越えると新橋(にいばし)を渡るが下を流れる川を「いたち川」(左)という。 鎌倉武士の「いざ出立」から 「いでたち川⇒いたち川」 になったという。
実はこの川は歌枕。 兼好法師が歌っています。
 かにわが ちにしひより りのきて ぜだにねやを らはざるらん

新橋を渡った右側に「とつ加道道標」(右)があり刻まれている道筋は「従是とつ加道」 「従是ぐミやうじ道」。右へ曲がる「ぐミやうじ道」が旧鎌倉街道。 すぐ隣の祠には延命地蔵が鎮座。

ぐミやうじ道に入って4~5分、西本郷小学校の前に「力石」(左)が置かれているがこの石の重さは30貫目(約110kg)。明治の初め、力士の春日森関はこの石を軽々持ち上げ手玉に取ったとか。

さらに数分、住宅地の間に小な「稲荷神社と石仏群」(右)が。馬頭観音、地蔵、庚申塔などだが花が手向けられ水の入ったコップも置かれており 大事にされているようだ。

JR根岸線のガードを潜った先の三叉路を左に入る道が旧鎌倉街道。 曲がってすぐの石垣下の石塔は正徳5年(1715)建立の「従是ぐミやうじ道」(左)と刻まれた道標。
石垣の上に この辺では比較的珍しい「長屋門」(右)が見られる。

この先は崖下の細い上り坂を歩き住宅地へ入って行く。本郷台小学校の脇まで来るとその先の旧道は宅地開発で消滅。小菅ヶ谷小学校前で旧道が復活するが環状3号を横断するためにちょっとだけ迂回が必要。

見晴橋を渡ったらすぐに左へ入ると「摺小鉢坂」(左)の急坂が待っている。最初は下り坂だが、この坂を下ると再び小菅ヶ谷小学校前への上り坂。つまり摺鉢のようになった坂なのだ。
この坂道は戸塚区と栄区の境い。上りきると再び環状3号を横断するためにちょっと迂回を。

舞岡南橋を渡ったところに元文2年(1737)建立の「庚申塔道標」(右)が1基。元々ここに在ったわけではなく道路建設のために移されたもの。道標には「これよりかまくらミち」「これよりぐめうじミち」。

いったん消滅した旧道が庚申塔の先から復活。

旧道は「舞岡公園」(左)を通って新興住宅地に入って行く。その先は大規模宅地開発の影響で旧道がはっきりしない。

芳賀善次郎氏によると「鎌倉街道は境界線上を通っていることが多い」とのこと。戸塚区と港南区の境界線上の道路が鎌倉街道か。日限山2丁目までくると旧道がはっきりするがその前に寄り道を。

「日限地蔵尊」(右)は慶応2年(1866)の開創で かつては人里離れた山中にあったのだが弁当持参で参詣する人達で賑わっていた。戦前は花柳街の綺麗所の艶姿も多かったという。こんな伝説が

日限地蔵尊裏の旧道に戻ったらマンション横の坂道を下り 老人ホーム芙蓉苑の横から戸塚区と港南区の境界線上の道に入って行く。

老人ホーム横を入ると雑木林の
中の道、途中まで舗装されて
おり車も通れる。
ほどなく人のすれ違いが難しいほど
狭い土道となる。
車止めの道に入る。 下永谷市民の森脇の遊歩道。

遊歩道を歩いていると「見事な紅葉」(左)が。思わず1枚。

ほどなく右の高台に東屋が見える。先ほどから表示があった「五山見亭」(右)だ。
云われがありそうな名前だが それらしき云われは無い。周囲を樹木に囲まれ全く見通しが悪いが遊歩道まで下りると目の前に富士山が見える。ここは知る人ぞ知る「ダイヤモンド富士」が見られる場所。

この先は一旦住宅地を通るが すぐに「山の中の狭い土道」(左)となり柏尾町へと下って行く。ここが横浜かと思えるような寂しい道だが鎌倉武士が通った道だと思うとちょっと感慨深い。

山道を下り住宅街に入るとほどなく国道1号と交差するが そのちょっと手前にある柏尾郵便局の前に「五輪塔」(右)がある。何故ここに。云われが全く分からない。

すぐに国道1号にぶつかるが今回の旅はここまで。バスでJR戸塚駅へ。


次の街道柏尾から中山まで      表紙へ戻る