①鎌倉から柏尾 ②柏尾から中山 ③中山から溝口 ④上 溝口から二子の渡し ④下 二子橋から渋谷 ⑤上 渋谷から抜弁天(新宿余丁町) ⑤下 抜弁天から東池袋 ⑥東池袋から川口宿
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鎌倉街道中道の旅、第2回目は戸塚区柏尾(かしお)から中山まで。前回はここが横浜かと思うような寂しい山道を
下り国道1号にぶつかった所で終了。
今回は国道1号、JR東海道線を越えて住宅地へ入って行く。その先は再び山中の道となり消滅状態。
横浜カントリーと戸塚カントリーの間に出来た道を通って左近山に抜け鶴ヶ峰へと下って行く。
鶴ヶ峰から先は白根不動の脇を通って長坂谷公園脇まで上っていき再び中山に向かって長い下り坂。下りきった
ところで中原街道を横断し長泉寺に到着したら今回の旅は終了。 |
神奈中バスの柏尾バス停で下車。JR東海道線を跨道橋で横断したら「住宅地の中の狭い旧道」(左)をしばらく歩き川上小学校の崖下まで来るとその先の旧道は消滅。
小学校を回り込み横浜新道を跨ぐ名瀬橋を渡ったらすぐに右へ曲がり旧道に復帰。
坂道を上りきったら「徳翁寺」(右)に寄り道を。上杉刑部太夫乗國の子憲方が文亀3年(1503)に創建。茅葺の素晴らしい山門だが、固く閉じられているので境内に入ることはできない。 |
街道に戻ったら階段を下り住宅街の狭い道を進み新戸塚病院の前まで来ると その先の旧道は山中に入り消滅。
「病院脇の階段を上り」(左)迂回路へ。途中に倫勝寺があるのでちょっと寄り道を。
覆屋の中に元禄時代に造像されたという傷みの激しい「地蔵2体と災除け観音」(右)が鎮座。 東京・小松川の治水対策工事現場の土中から掘り起こされたものだそうだ。 |
倫勝寺を出た先からは「横浜カントリーと戸塚カントリーの間の道」(左)を歩くのだが尾根道の長い上り坂、結構疲れる。
上りきったところに戸塚カントリーの入口があるが先ほど消滅した旧道はこの辺りに通じていて この先から旧道が復活。
数分歩くと道路際に「都塚標柱」(右)が建てられ「昔は武蔵の国と相模の国の国境 鎌倉の都が一望できた」と記されている。その後ろに見える小山が都塚。 |
塚の上り口に小さな「道標」(左)が1基。刻まれている方角は「南 鎌倉道」「西 武相堺道」「東 二俣川村道」。 かつては武蔵と相模の国境であったが今は戸塚区と旭区の区境。
塚の上に「地蔵堂」(右)があり祀られているのは延命地蔵。
地蔵堂の前にびっくりするほど大きな松ぼっくりが。 |
都塚の前から10分ほど下ると十字路際に小さな「道標」(左)が建てられており「南鎌倉道 西大山道」とある。今は十字路だが かつては三叉路だった場所。鎌倉街道はここを右へ曲がっていく。
小さな長谷橋を渡り 突き当りを左へ曲がったら道成りに7~8分、バス通りを横断して左の細い坂道を上っていく。
数分歩くと三叉路があるが「ここが間違えやすい」(右)。うっかり真っ直ぐ進むと自分がどこに居るのか分からなくなってしまう。「寿々喜園芸」の看板前を右へ曲がっていく道が旧鎌倉街道。 |
その先は保土ヶ谷バイパスの上を通り 本宿中学校の看板が見えたら左に入り 新幹線を越え 相鉄線の踏切まで下って行く。 |
踏切りを渡ったらその先の三叉路を右へ曲がると「鎧の渡し 首洗い井戸」(左)と記された標柱が。
かつてこの地を流れていた帷子川は川幅が広く武士が川を渡るときは鎧を頭にかざして川越へしたという。その川原にあった井戸で討ち取った畠山重忠公の首を洗い清めたのだと伝わっている。
すぐ先に「首塚」(右)の標柱が建てられているが ここは愛甲三郎によって討ち取られた重忠公の首が葬られた場所。
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鎌倉幕府の有力御家人であった畠山重忠は執権・北条時政の謀略により落命。この周辺には重忠公ゆかりの史跡が多い。 |
厚木街道の鶴ヶ峰駅入口交差点向う側に「畠山重忠公終焉の地」(左)と記された標柱が見える。その下の小公園に据えられているのは「畠山重忠公碑」(右)。
元久2年(1205)、重忠公は鎌倉に向かう途中 この地で北条氏数万の兵と戦い無念の死。二俣川の合戦と呼ばれている。
八王子街道(国道16号)向うの山の上を通っていた浜街道(旧八王子街道)沿いには 「畠山重忠公戦死之地碑」 「六つ塚」 「駕籠塚」 など重忠公に係わるいくつかの史跡が。 |
重忠公碑の隣にある篠竹は「さかさ矢竹」(左)。
重忠公は戦死の直前に矢二筋を地に突き刺したが やがてこの矢が根付き、年々、二本ずつ生えて茂り続けたという。
この先のルートがはっきりしないが鶴ヶ峰交差点から国道16号を歩き白根交差点で左に入ると旧道に復帰。
左に曲がって数十メートル歩くと「鶴ヶ峰坂」(右)と記された標柱が建てられているが この上り坂は浜街道(絹の道・旧八王子街道)で長さ2町ほどの急坂。標柱には「旧八王子街道の難所であった」と記されている。 |
5分ほど歩いたら「白根不動」(左)と白根神社に寄り道を。
前9年の役(1053~62)の際、八幡太郎義家は兜の内に不動明王座像を納めて奥州に向かい勝利。このことに報いるため康平6年(1063)に社殿を建立し坐像を祀ったのが不動堂の起源だという。
不動堂の左手数分の所にあったのは「白糸の滝」(右)。かつては横浜市内最大の滝だったが平成2年(1990)に護岸改修工事が行われホテルの庭園滝のようになってしまったのが残念。 |
滝の手前にある石碑は「万葉歌碑」(左下)。刻まれているのは万葉集巻二十に納められた防人とその妻の歌。 |
我が行の息衡くしかば足柄の峰延ほ雲と見とと偲ばね
私の旅が嘆かれてならないなら 足柄の峰にかかる雲を見ながら私を偲んでおくれ
わが夫を筑紫へ遣りてうつくしみ帯は解かななあやにかも寝も
私の夫を筑紫へ送り出して いとしさに帯を解かずに心乱れて寝ることであろうか
万葉歌碑脇の白糸の滝橋を渡り坂道を上ると「白根神社」(右)に到着。不動堂の別当職 白滝山正願寺が明治初年に廃寺となり白根神社となったもの。元々は不動堂本堂であった場所。 |
街道に戻り数分歩くと「鬢手洗池跡」(左)の標柱が。文治5年(1189)、奥州征伐途中の源頼朝が 白根不動 に祈願に立ち寄った際 この池で鬢をなでつけたと伝えられている。
道路反対側に「斉藤橋」(右)という橋があるが室町時代からこの地に居住し江戸時代には 代官・名主を務めた斉藤家にちなむ橋名。そういえば代官前というバス停があったなー。 |
この先は見どころも無く少々単調な歩きが続く。
白根通りを北上し相鉄ローゼンが見えたら その「裏の細い道が旧道」(左)。緩い上り坂を20分ほど上っていく。
長坂谷公園の脇まで上ったら今度は住宅地の中の緩い坂道を15分ほど下ると中原街道旧道と交差。その先の「現・中原街道を横断」(右)して進むと長泉寺の前に。
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長泉寺の門前に元禄6年(1639)造立の「庚申塔」(左)が1基。三猿の上に青面金剛が乗るという正統派の庚申塔。
長泉寺の隣に「杉山神社」(右)があるのでこちらにも寄り道を。
約800年前の鎌倉時代に創建されたとされるが詳しいことは分からない。拝殿脇に水琴窟が造られているのが珍しい。
今回の旅はここまで。次回は長泉寺脇の細い道を入り鶴見川を越えて川和、荏田、溝の口方面へ向かう。 |
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