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鎌倉街道中道

①鎌倉から柏尾    ②柏尾から中山  ③中山から溝口   溝口から二子の渡し   二子橋から渋谷   渋谷から抜弁天(新宿余丁町)   抜弁天から東池袋  ⑥東池袋から川口宿

二子橋から渋谷まで 街道地図


鎌倉街道中道の旅 4回目後半は多摩川に架かる二子橋から。
二子の渡しから先の鎌倉街道中道は二つのルートがあった。一つは中野、板橋を経て赤羽岩淵へ至るルート、
もう一つは上野毛、渋谷、新宿を経て赤羽岩淵へのルート。その先は岩淵の渡しから川口に入り、鳩ヶ谷、幸手、
古河を通って奥州に至る。
今回の旅では上野毛・目黒を通って渋谷まで歩く事にした。途中、消滅した道もあるが、都会地の割には旧道が
よく残っており、庚申塔や地蔵尊なども見られる。

 平成29年1月17日

二子の渡し は二子神社の前から「兵庫島」(左)辺りまでであった。二子橋を渡ったら右側の階段を下り兵庫島へ。
正平13年(1358)、新田義興が従者13人と鎌倉へ向う途中、多摩川矢口渡しで敵の策略にはまり義興は自害。13人も討死したが その中の一人 由良兵庫助の遺体がこの中州に流れ着いたという。

今は公園となっているが その一角に「若山牧水歌碑」(右)がある。
  多摩川の砂にたんぽぽ咲くころは われにもおもふひとのあれかし 牧水詠 旅人書

兵庫島から先のルートがはっきりしない。今回は兵庫島を出て土手沿いに下って行くことにした。

東急田園都市線のガード下を通った先の玉川福祉作業所門前にひっそりと立っているのは「二子の渡し跡碑」(左)。
二子の渡しは当初 二子村が請け負っていたが天明7年(1778)に瀬田村にも渡し舟の許可が下りこの近くに船着き場が設けられていた。この渡しは二子橋が完成する大正14年(1925)に終了。

もう少し歩くと平成25年(2013)にオープンした「二子玉川公園」(右)があるのでこの公園を横断すると旧道に復帰できる。園内にコーヒーショップがあるので疲れた足の休憩に最適。

公園を横断して真っ直ぐ進むと丸子川に架かる稲荷橋を渡るが その先は上りの「稲荷坂」(左)。 国分寺崖線を上る急坂だが大きな樹木に囲まれ大都会の中とは思えない。

坂の途中にあったのが「上野毛稲荷神社」(右)。由緒が無いため詳しいことは分からないが上野毛村の総鎮守として村人に大切にされてきたという。ここも神社の裏が深い森となっており都会の中とは思えない静かな佇まいだ。

稲荷坂を上り、東急・上野毛駅を通り越し道なりに右へ曲がっていくと上野毛通り。この先は目黒に向かって一直線。

上野毛通りに入り程なくすると左手に神社の鳥居が見えるが、その手前を右に入った先の「金剛寺」(左)は弘安7年(1284)に聖空上人が薬師如来を勧請、一宇を建立したのが始まりという歴史ある寺院。
境内の北向薬師は坂東七薬師の一つ、眼病と安産に効験ありと古くから信仰を集めている。

街道に戻ると目の前は「天祖神社」(右)。創建年代は不詳だが江戸時代には神明宮と呼ばれ野良田村(現・中町)の総鎮守として篤く信仰を集めていた。明治7年(1874)に現社名に改称。

ほどなく上野毛通りが目黒通りに合流するが合流点手前に祀られているのは「庚申塔と地蔵尊」(左)。元々ここに在ったものか、集められたのかは不明だが この一角だけは時代が逆戻りしたような。

目黒通りに合流して10分、八雲3丁目交差点を左に入ると遥か彼方から上り坂が目黒通りに向かって上ってくるが この坂を「太鼓坂」(右)という。なぜ太鼓坂?諸説あるが斜面が太鼓のような形をしていたので太鼓坂、とも、急坂のため太鼓を転がすように人が転げ落ちたので太鼓坂とも呼ばれるようになったとか。

さらに十数分、目黒道りの右側に小さな「中根橋の欄干」(左)があるが かつて呑川が流れていた頃の中根橋跡。今は暗渠となり川面は見えない。

欄干の対面側に「ガタクリ馬車説明板」(右)があるが、それによると明治の末頃、1日に6回ほど馬車が運行されていたが この道は石ころだらけのガタガタ道。馬車は右に左に激しく揺れながら走っていたので ついた名前がガタクリ馬車。

鎌倉街道の旧道はこの先から消滅しているので迂回路として選んだのが呑川柿の木坂支流緑道。  環七(都道318号)の柿の木坂一丁目交差点を横断したところから旧道が復活。

旧道を下馬5丁目辺りまで歩いたらちょっと寄り道を。向かった先は「駒繋神社」(左)。
天喜4年(1056)、源頼義、義家父子が奥州征伐の途次、武運を祈ったという。その後、源頼朝が奥州・藤原氏征伐のおりに愛馬芦毛を境内の松の木に繋いで参拝したと伝えられている。

その松の木があった場所に「駒繋之松碑」(右)が建てられており 碑には 「三代目 駒繋之松」 とあるが残念ながら松の木は無い。
 

蛇崩川緑道を通って街道に戻ると道路の真ん中に大木と石碑のある島が出現するが ここは「芦毛塚」(左)。
伝承によると源頼朝が芦毛の馬に乗ってこの地を通った時、その馬が何かに驚いて沢に落ち込んで死んだという。その愛馬を葬った塚が芦毛塚。

その先を左に曲がり三宿病院入口交差点まで歩くと道路の端に「庚申塔道標」(右)が。側面に刻まれている文字は「南ゆうてん寺道  北めぐろ道」。

道標を右に曲がり蛇崩交差点を過ぎると上りの「半兵衛坂」(左)。江戸時代、この辺りに代々清水半兵衛を名乗る旧家があったことで半兵衛坂と呼ばれるようになったのだとか。

坂を上り寿福寺の前を通り過ぎたら右の細い道に入るのだが、その入口に並んでいたのは「宿山の庚申塔」(右)。
これらの庚申塔は元禄5年(1692)、延宝3年(1675)、宝永5年(1708)に造立されたもの。 珍しいのは地蔵菩薩を本尊とする庚申塔(一番背の高い石造)だが、滅多に見ることはできない。

4~5分歩いた先の烏森小学校前から下り坂となるが、この坂道を「小川坂」(左)という。
小学校の塀にある小川坂の説明板に 「この坂のある道は鎌倉へ通じる道として中世の頃開かれた鎌倉道であった」 とある。

小川坂を下り山手通りを横断すると宿山橋を渡るが その下を流れる川は桜並木で有名な「目黒川」(右)。かつてはホタルが飛び交い染物屋が友禅流しをするほどの清流だった。

目黒川を渡り突き当りを右に曲がると三叉路となるが、左の上り坂は「目切坂」(左)。江戸時代、近くに石臼の目切りをする腕の良い石工が住んでいたことからこの名前が付いたのだとか。

目切坂を上りきった所に「本富士跡」(右)の説明板が。
富士山信仰が盛んだった頃の文化9年(1812)、この奥のマンション敷地内に高さ12mほどの富士塚が築かれた。その後、中目黒にも富士塚が築かれたことから こちらを元富士と。

元富士から50mほど歩いたビルの陰に文政元年(1818)造立の道標を兼ねた「地蔵尊」(左)が鎮座。台座部分が道標となっており刻まれている道筋は「右大山道 南無阿弥陀仏 左祐天寺道」。
説明板に心優しい言葉が。「江戸時代には人家もまばらなさびしい道で旅人はこの道しるべを見て安心したことでしょう」。

地蔵尊の反対側は国指定重要文化財の「旧朝倉家住宅」(右)。 東京府議会議長や渋谷区議会議長を歴任した朝倉虎次郎によって大正8年(1919)に建てられた和風住宅。庭園を含めて一見の価値あり。

旧山手通りを横断して5~6分、猿楽小学校裏交差点を左に入った辺りは「猿楽古代人住居跡」(左)。弥生人が居住していた場所と推定されている。

街道に戻り坂道を下ってJR山手線の線路を越えたら階段を下りガード下を通ると その先は「鎌倉街道の旧道」(右)。

並木橋を渡ると「鎌倉道」と表題のついた説明板が建てられている。書き出しに 「この右手の細い道を、古くから鎌倉道と呼び、・・・ 」とあるが、今 通ってきた道がその鎌倉道。

大都会の中でも随所で鎌倉時代、江戸時代の息吹を感じることが出来る旅であった。次回は渋谷・並木橋から。

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