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鎌倉街道中道

①鎌倉から柏尾    ②柏尾から中山  ③中山から溝口   溝口から二子の渡し   二子橋から渋谷   渋谷から抜弁天(新宿余丁町)   抜弁天から東池袋  ⑥東池袋から川口宿

⑥東池袋から川口宿まで 街道地図

鎌倉街道中道の旅 最終回は東池袋から埼玉県・川口まで。
東池袋までは旧道が消滅しているが高速道路下を通って春日通り(国道245号)まで来ると旧道が復活。
住宅地の中のいかにも旧道という雰囲気の狭い道を通って明治通り(都道305号)に合流し滝野川まで来ると
再び旧道が消滅。 迂回路を通り十条まで来ると日光御成道に合流。赤羽・岩淵を通って新荒川大橋を渡り
旧川口宿に入ったら今回の旅は終了。
鎌倉街道中道は さらに日光御成道、日光街道を通って奥州方面に向かっている。
 

 平成29年2月7日

鬼子母神の近くから旧道は消滅。迂回路を通って東池袋まで来たら首都高速の下を通り春日通りへ。東池袋3丁目交差点を渡ったら左へ曲がると高い所に「子育て地蔵」(左)が見える。
立派な祠に納まり子育て地蔵尊 と刻まれた石碑もあるのだが説明板の類が無いため云われは分からない。

30mほど先の帝京平成大学脇から「旧道」(右)が復活。昔ながらの狭い道で 旧道の雰囲気が。5~6分歩くと明治通り(都道305号)に合流。

明治通りを十数分歩くと淑徳高校の先にちょっと殺風景な公園があるが ここは「千川上水調整池跡」(左)。
元禄9年(1696)に開削された千川上水は玉川上水から分水され延々20数キロ流れてここの溜池から江戸市中へ給水。

道路反対側の石碑は「千川上水分配堰碑」(右)。明治15年(1882)に設置されたもので上水利用の水利権を明確にしたもの。裏面に利用者、樋口の大きさ、堰巾などが刻まれている。

ほどなく中山道(国道17号)を横断し八幡通り商店街に入って行く。

商店街の外れに鎮座しているのが「滝野川八幡神社」(左)。建仁2年(1202)創建と伝わっているが定かではない。 境内末社の榛名社は農耕時の降雨を願った農民が榛名山より勧請したものだとか。

八幡神社から先も旧道が消滅。この先は迂回路を。
5~6分歩いた先の「四本木稲荷神社」(右)は陸軍十条兵器製造所にあった稲荷神社を戦後に当地へ遷座。当時、工場拡張のため古墳を壊したが その後事故が多発したため守り神として祀ったのだという。

石神井川沿いの「金剛寺」(左)は弘法大師が創建したと伝えられている古刹。また源頼朝布陣の地という伝承がある。
治承4年(1180)、石橋山の合戦で敗れた頼朝は相模国真鶴から安房国に逃れたが そこから上総、下総の諸将を味方につけ鎌倉を目指す途中、滝野川の松橋に陣を取ったと云われているが そこは金剛寺の寺域であった。

金剛寺を出たら「紅葉橋」(右)を渡るがその橋名は金剛寺から。八代将軍吉宗の命により金剛寺に楓100本が植樹され紅葉の名所となったことから紅葉寺とも呼ばれたが そこから紅葉橋と。

紅葉橋を渡ると十条の高台へ上っていく。上りきった先の三叉路に石塔が2基。その先の信号を左に曲がると旧道に復帰。
旧道は昔ながらの狭い道。5分ほど歩くと日光御成道に合流。この先川口までは日光御成道を歩く事に。

数分歩き 「茶垣の参道を通って地福寺へ」 と思ったら道路の各幅工事で茶垣の参道が無くなっている。
地福寺山門の脇に地蔵尊が6体。六地蔵ということではないようで左の大きな地蔵尊は「王子の三地蔵尊」(右)の内の一尊。鎌倉街道のお地蔵様 とも呼ばれた地蔵尊で江戸中期の造顕。

さらに数分歩いた先は「十条富士塚」(右)。溶岩を配した富士塚には登山道も整備され頂上には富士山の御神体の分霊を祀る祠もある。ここで富士山に登ったつもり。

富士塚から4~5分、西音寺入口に笠付きの「六面憧地蔵」(左)と呼ばれる珍しい地蔵尊が。上部に阿弥陀三尊、下部に六地蔵が彫られているが この辺では珍しい。

環七通りまで来ると交差点際に「八雲神社」(右)が鎮座。
祭神は牛頭天王であることから地元ではテンノウ様(天王様)と呼ばれ崇敬されている。 内緒で賽銭をあげると縁が結ばれるというご利益があり縁結びの神様として人気があった。

環七通りを横断すると下り坂となるが、この坂は「清水坂」(左)。かつては切通しの崖からたえず清水が湧き出していたことから清水坂と。十条の長坂 とも呼ばれたけわしい坂道だった。

坂を下りJR埼京線のガードを潜ると左に上る坂道があるのでちょっと寄り道を。
坂の途中に元禄11年(1698)銘で「傳教大師一刀三礼にて御彫刻 本門薬師如来」と刻まれた「法真寺題目塔」(右)が建てられている。

坂を上っていくと「香取神社」(左下)の石標があり、長~い上り階段が。

香取神社は旧稲付村の鎮守であったが、その本殿は上野東照宮の本殿(内陣)だったもので、慶安3年(1650)、三代将軍家光が霊夢を見たことにより稲付村に移築。境内に七つの力石が置かれているが、その重さは19貫目から55貫目。これを持ち上げたのが小川留五郎なる人物だそうだ。

その先の「法真寺」(右)は慈眼大師の肉弟・證導院日寿上人が天正11年(1537)に開山。開基は守澄法親王と伝えられている。鐘楼堂に吊られている梵鐘は宝暦7年(1757)の鋳造。

街道に戻り数分、左側の緩い上り坂は「真正寺坂」(右)。庚申塔は明和6年(1769)の造立で道標も兼ねており、「これより いたはしみち」と刻まれており中山道につながっている。

すぐ先の左側路地を入った奥の竜宮城のような建物は「普門院山門」(右)。門を潜るとインドの仏塔のような共同墓地があり本堂の外観は中国風。なかなかユニークな寺だ。


街道に戻り4~5分先の路地を入ると突き当りが「稲付城跡」(左)。階段上の静勝寺境内は大田道灌が築城したと伝わる砦跡。明暦元年(1655)に道灌の子孫大田資宗が堂舎を建立し静勝寺としている。

本堂前の「道灌堂」(右)には元禄8年(1659)に造立された木造大田道灌座像が厨子に入れられ安置されている。通常は閉扉されているため拝観できないが毎月26日のみ開扉されるそうだ。

静勝寺から先の旧道は消滅。JR赤羽駅の自由通路を通って高架沿いの道を進んで行くと突き当りの丁字路向うは宝憧院。

宝憧院前の道は日光御成道(岩槻街道)と板橋道が合流する交通の要所。ここに立つ「道標」(左)は元文5年(1740)の造立。刻まれている道筋は「東 川口善光寺道 日光岩付道」 「西 西国富士道 板橋道」 正面に「南 江戸道」。

境内に「庚申塔が2基」(右)。左の板碑型庚申塔は寛永16年(1639)の造立で阿弥陀如来と2猿が線刻されておりちょっと珍しい。 右側は地蔵尊の庚申塔でこれも たまに見かけるが珍しい。

7~8分歩くと東京23区内唯一の造り酒屋「小山酒造」の店舗があるのだが残念ながら本日は定休日。純米吟醸丸真正宗が旨い。

小山酒造の先に「岩槻街道岩渕宿問屋場阯之碑」(左)と刻まれた石碑が建てられている。岩渕宿には何軒かの旅籠や本陣があったのだが往時を伺わせてくれるのはこの石碑のみとなってしまった。

この先は「新荒川大橋」(右)で対岸へ渡るのだが橋の途中から土手に降りると 岩渕の渡船場跡 についての説明板が。
記された内容を要約すると 「源義経がここを渡り、 室町時代には関所が設けられ、 徳川将軍が渡るときは舟橋が設けられたこと。 明治後半に常設の舟橋ができ 昭和3年に新荒川大橋が開通」。

橋を渡り荒川スーパー堤防の上にある小・中学校前を5~6分歩くと その先が「川口善光寺」(右)。
広重の「江戸百景めぐり」にも「川口の渡し善光寺」として描かれている。手軽な善光寺参りとして江戸庶民の人気を集めていたようだが今は堤防の上に移設され かつての面影は全く感じられない。

中学校前まで戻ると「旧川口宿」(右)の町並みが一望。往時の面影が所々に残るこの道は 本一通り商店街。

堤防を下りた所のポケットパークの石碑は「鎌倉橋の碑」(右)。
古の鎌倉街道であったころ、この近くの小川に架かっていた橋で当時からこの地は奥州への重要な交通路であった。

かつての川口宿、現在の本一通り商店街へ入るとさっそく古民家が。
「浜田接骨院」(右)の看板が出ているこの建物は明治40年(1907)の建築だとか。古い建物を大事に残してくれるとは嬉しいね~

接骨院のすぐ先の路地を入った奥に長瀬家が務めた本陣があったが今も 「本陣門」(左)が残されている。街道に面していない本陣門は珍しい。

街道に戻り数分先の路地を左に入ると「発電所跡」(右)のレンガ造りの建物が見られる。埼玉県内で一番早く電気が使われた場所でキュポラに風を送るための動力用だった。

発電所跡を出てふっと左を見ると「レンガ塀の路地」(左)が見えるではないか。レンガ塀は発電所の外塀のようだが風情ある路地だね~地元では「かじまの路地」と呼んでいる。

その先にも古民家が1軒。「中西日進堂薬局」(右)の建物は大正時代の建築。その2~3軒手前の正木屋という衣料品店はもっと古く明治の建築だが残念ながら看板に隠れて見えない。

本一通り商店街の突き当りが「川口宿ミニ公園」(左)。
この公園には 「日光御成道と川口宿」 と題された説明板や、「川口宿絵碑」、「鍋屋の井説明碑」等が建てられている。
鎌倉街道中道の旅はここで終了とした。

この先の鎌倉街道は、日光御成道、日光街道を経て奥州方面へと続いている。
日光御成道の川口宿から先はこちらを参照ください。

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