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東三崎道 道中記

(1)浦賀から三浦海岸まで   (2)三浦海岸から三崎まで

(1)浦賀から三浦海岸まで 街道地図


東三崎道の旅 初回は東浦賀道から分かれ海防陣屋跡までの約10km。
東浦賀道沿いの西叶神社先から西方向に分かれ、久里浜、野比、津久井を経て京急・三浦海岸駅近くの
海防陣屋跡まで歩いた。
渡し船に乗ったり、アーケード商店街の街道を歩いたり、家並みの間から真っ青な海を眺めたり、はたまた
左甚五郎作と伝わる龍の彫り物を見たりと、それなりに変化を楽しめる街道歩きであった。

令和元年7月31日

京急・浦賀駅を出たら まずは東浦賀道に入り十数分、街道際の高台に鎮座するのは「西叶神社」(左)。文覚上人が源氏再興を発願し養和元年(1181)に京都・石清水八幡宮の御霊を勧請して建立。源氏再興が叶ったことから叶大明神と称するようになったという。

社殿は天保13年(1842)の再建で、本殿、幣殿ともに総桧造り。梁や欄間、天井に施された「彫刻」(右)が素晴らしい。当時名工と謳われた彫刻師後藤利兵衛の作で、その総数は二百三十を超えるという。

西叶神社に参拝したら東叶神社にも。 ということだが陸路を歩くと40分ほどかかる。ここは渡し船(冒頭写真)が便利。神社までは徒歩も含めて10分ほど。

「東叶神社」(左)も文覚上人が京都・石清水八幡宮の御霊を勧請して創建されたとされる。 一方、別の伝えによれば、元禄5年(1692)に幕府の政策で浦賀村が東西にに分けられたが、そのとき西浦賀村の叶神社を遷して祀ったとも伝わっており、西の本宮、東の若宮とも言われていた。

社殿に上る石段の両脇に植えられている「蘇鉄」(右)は源家再興の折り、源頼朝が伊豆より移植奉納されたと伝えられている。
帰りも渡船に乗ったが浦賀湾の渡船は歴史が古く、享保18年(1733)の東浦賀明細帳に渡船の記述がある。

西叶神社前まで戻りちょっと歩くと三叉路となるが、ここを右へ曲がる道が三崎道のスタート点。

右へ曲がったすぐ先の東福寺は創建年代不詳だが、徳川家康が江戸に入城した際に三浦半島の代官となった長谷川七左衛門によって禅宗の寺に改宗。このことから浦賀奉行は就任すると必ず仏参したという。
本堂には江戸時代を代表する画家酒井抱一の「亀の絵馬」(左)が展示されている。

街道に戻り50~60メートルほど歩くと小さな「石橋」(右)があるが、ここを渡った先の常福寺は文明年間(1469~86)に創建され、浦賀に奉行所が移されてからは幕府の御用寺院として本陣の役割も担っていた。また奉行交代の儀式が常福寺で行われていたことから、着任、離任の奉行はこの橋を渡って常福寺に行ったのだろう。

石橋まで戻り旧道を4~5分歩くとバス通りに合流。さらに10分、右手の高台に見える石碑は「浦賀港拓道碑」(左)。浦賀から久里浜に抜ける道は大変な急坂であったが、江戸へ出て財を蓄えた八幡村の峯島茂兵衛が私財を投じて山を切り開き明治4年(1871)に緩やかな道を完成。その経緯が刻まれている。

坂道を10分ほど下ったら宗円寺に寄り道を。 本堂前に祀られているのは「両面地蔵」(右)という珍しい石仏が十体。奥州後三年の役で失明した熊倉兼五郎景政が盲目の身にもめげず一念発起、手探りで両面地蔵を彫りあげたのだった。

ほどなく三浦半島内最長(約8km)の平作川に架かる夫婦橋を渡ると「内川新田開発記念碑」(左)がある。これは砂村新左衛門なる人物が万治3年(1660)から八か年を費やして完成させた内川新田工事の記念碑。
この時、平作川の両岸から中州に向かって2本の橋が架けられたことから夫婦橋と呼ばれるようになった。

当時の橋は現・夫婦橋より少し上流側に架かっていた。ということで上流側に30メートルほど歩き左へ曲がると旧道に入れる。その先は、なんと、「アーケード商店街」(右)。夏でも冷房の風が道路まで流れ込みヒンヤリ。こりゃいいや~

商店街の旧道を5分ほど歩いたらちょっと寄り道を。
左へ曲がって国道134号を横断すると「ペルリ上陸記念碑道標」(左)が交差点際に建てられている。明治41年(1908)に建てられたもので、上部に「COMMODORE PERRY'S MONUMENT」とローマ字が刻まれた大変珍しい道標。

その数分先に鎮座しているのは「久里浜天神社」(右)。内川新田の開墾をはじめた砂村新左衛門が万治3年(1660)に摂州福島村の天満宮を勧請して創祀。三浦半島全域には80余の神社があるそうだが菅原道真公を主祭神として祀る神社はここだけだとか。

商店街の旧道に戻り5分ほど歩くと国道134号に合流。緩い上り坂がダラダラと続いていく。

やがて切通しとなるが、かつては荷車を引いて坂を下るとき坂が急なため後部を擦りながら下ったという急坂。そのため「尻こすり坂」(左)と呼ばれたそうな。今は切通しとなって急坂ではなくなったが夫婦橋からこの先のハイランド入り口交差点あたりまでを「尻こすり坂通り」と呼んでいる。

ハイランド入り口交差点の手前に「尻こすり坂開鑿記念碑」(右)が建てられているが文字はほとんど読み取れない。傍らの説明板によると、明治17年(1884)から山を切り崩し、翌18年12月に竣工したことを記念した碑だそうで、この工事に延べ3万人が係わったという。

この先からは緩い下り坂。大作交差点の手前に「武山不動尊」(左)がひっそりと立っている。台座部分が道標となっており、刻まれた行き先は「右 うらが かもゐ」「左 みやた みさき」とあり、台座上部には「此の方たけやまみち」と。
三崎道は大作交差点の100メートルほど先の路地のように狭い道を左に曲がって行く。

住宅地の中を通り山裾を回り込むと最光寺の横に出る。この寺院は天平元年(729)に高座郡菱沼に草創され、天文9年(1540)に現在地近くに移転したという古刹。墓地の一角にあった石塔はちょっと珍しい「魚貝供養塔」(右)。野比漁業協同組合が建立したもの。

最光寺を出て10分ほど歩くと国道134号に合流。野比川に架かる野比橋を渡たり右へ入ると再び旧道。
旧道に入って数分、長岡町内会館前に鎮座しているのは「長岡地蔵尊」(右)。詳細は分からないが立派な地蔵堂に納められ大切にされているようだ。

さらに10分ほど歩くと「八基の庚申塔」(右)が整然と並べられている。 中でも珍しいのが一番右の庚申塔で三猿のみの初期型。銘を見ると三百五十年近く前の延宝3年(1675)とある。

街道から右に入って5分、山裾に「熊野神社」(左)が鎮座。詳細は不明だが江戸時代初期に紀州から多くの漁民が移住しイワシの漁法を三浦半島に伝えたという。その漁師達が熊野三社権現を勧請して建立したと伝えられている。

しばらく歩いた先の法蔵院山門に「龍の彫刻」(右)が嵌め込まれているが、この龍は時化の夜になると海上を泳いで対岸の房州に遊びにいったという。そのため左目に目打ちの五寸釘が打たれてしまったが、一説には左甚五郎作とも。そういえば日光街道越ケ谷宿の清蔵院山門の龍は夜な夜な近所の畑で遊びまわるため金網で囲われてしまったが、その龍も左甚五郎作であった。

法蔵院を出て数分、なんの変哲もない十字路に差し掛かるが、ここは旧三浦郡北下浦村と南下浦村の境界で現在の「横須賀市と三浦市の境界」(左)。写真の左側が横須賀市で右側が三浦市。歩くとこんな些細なことにも足が止まる。

京急三浦海岸駅に向かう途中の「海防陣屋跡」(右)には冠木門と白壁が造られ、わずかに往時の雰囲気を想像させてくれる。弘化4年(1847)、徳川幕府は異国船渡来に怯えて急ぎ江戸湾防備に着手。三浦半島の警備を命ぜられた井伊掃部頭直弼が本拠を置いたところを海防陣屋と呼んだ。その後、長州藩、熊本藩に交代した後、浦賀奉行に移管されたという。

海防陣屋跡のすぐ先が京急三浦海岸駅。今回の東三崎道歩きはここまで。

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