光仁天皇(771−780)の御代、地頭群馬太夫満行の末子八郎満胤は芸能・弓馬の道にすぐれ帝から目代の職をたまわった。ところが兄たちは八郎を夜討ちにし鳥啄池の岩屋に押し込めてしまったのだ。3年後、八郎は大蛇となり兄たちとその妻子まで食い殺し、さらには、その害は国中の人々にまで及ぶようになったため帝はこれを憂え、年1度の生贄を許したのであった。
やがて16歳の海津姫が贄番となったのだが都から来た勅使、宮内判官宗光がこれを知り、海津姫とともに岩屋へ入って琴を弾き観世音菩薩を唱名。これを知って大蛇は黄色の涙を流して悔い改めて烏川の辺へ移り、「吾が名は飯玉」と託宣して消えうせたのだとか。これを見た宗光が建てさたのが「飯玉大明神」で、明治に入り近郷の諸社を合祀して倉賀野神社となった。
拝殿正面の向拝は「琴を奏でる宗光の彫刻」(右)という極めて珍しいもの。 |