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鮮魚街道  道中記

@布佐河岸から冨塚まで  A冨塚から五香  B五香から納屋河岸

鮮魚街道B 五香から納屋河岸 街道地図

県道と重なっていた鮮魚街道は五香駅の先から県道の一本北側の静かな旧道となる。
この先は小金牧の中を通っていた街道であるため見所は少ないが、たまに現れる遺構・遺跡
などを見ながら2時間ほど歩いて水戸街道に合流。松戸宿を通って納屋河岸へ到着する。

 平成25年3月15日

御立場跡から五香駅近くまで戻ったら県道の一本北側の道に入り旧道に復帰。7〜8分歩くと綺麗に「手入れされた生垣」(左)が彼方まで続いている。生垣、いいですね〜。

生垣の終わり辺りに(入口は県道側)「金毘羅神社」(右)が見える。由緒が無いため詳細は分からないが海から遠いこの地にあるということは鮮魚街道に関係したのだろう。
本殿に面が2枚奉納されているが神楽で使われた物だろうか。

街道はこの先も静かな「住宅街の中」(右)を通り中学校の先で突き当たりとなり一旦途切れる。

その突き当たりを右に行く道は「新日本街路樹百景」に選定された「けやき通り」(右)。今は冬枯れの欅並木だが芽吹きの頃や秋の紅葉は素晴らしいだろう。

けやき通り入口の小さな公園は養老伝説がある「子和清水」(左)。次ぎのような伝説が残されている。
昔、外から帰ると酒に酔っている父にいぶかった息子があとをつけると、こんこんと湧き出る泉をすくって飲み「ああ美味い酒だ」と言っている。父の去ったあと息子が飲んでみると、ただの清水。この話を聞いた人々は「親は古酒、子は清水」と言うようになったとか。

公園の一角にある石碑は「一茶句碑」(右)。    母馬が 番して呑ます 清水かな   一茶
ほのぼのとする一句ですね。

子和清水交差点の向こう側に建てられた「生街道(鮮魚街道)標柱」(左下)に旧道の位置関係が記されている。その文章などから推察すると一旦途切れた鮮魚街道だが
県道のすぐ先で右に曲ると復帰できるようだ。

旧道はこの先も静かな住宅街の中を通っていく。 先ほどは生垣を見たが今度は「竹垣」(左)が。飴色を通り越しまもなく朽ちようとしている竹垣も風情ありますね〜。 コメント:今は無いかもしれない

かれこれ15分ほど歩くと再び丁字路に突き当たり旧道は一旦途切れる。その丁字路を右に曲ると小金牧を管理していた在所の役場である「金ケ作陣屋跡」(右)がある。

丁字路まで戻り踏切りを越えた先に鎮座するのは「八坂神社」(左)。由緒書きによると安政元年(1854)に牛頭天皇を祀ったのが始まりとされる。「旧鎌倉往還に近い街道筋」とも記されているが調べると、鎌倉往還の一部が松戸道(鮮魚街道)と重なっていたようです。

この先は八坂神社横を左に曲がり、みのり台駅手前の踏切りを渡り県道281号の工業団地横を通って約30分。日産販売店の先を左に入り坂道を上って「再び旧道へ」(右)。

上りきった先は旧街道の雰囲気が残る尾根筋の道。ほどなく交差点に差し掛かるが、その左側にあったのは文化11年(1814)建立の「庚申塔」(左)。

さらに10分ほど歩くと歩道際に「征清役馬記念碑」(右)と刻まれた石碑が。日清戦争のとき馬を供出したときの記念碑のようだ。

ほどなく国道464号と交差。交差点を渡ったすぐ先に旧道が400mほど残っているので旧道へ。

再び国道に出るとその先は千葉大学園芸学部で途切れてしまうので「大学脇の道路」(左)を歩くのだが雑木林の横を通る道は車も通らずなかなか良い雰囲気。

道なりに進むと「維新の志士 竹内啓先生の墓」(右)と記された説明板が建てられている。 慶応3年(1867)、栃木県の出流山で赤報隊の一派を率いて尊王倒幕の兵を挙げたが敗れ江戸へ護送される途中この地で処刑。

街道はこの先のJR常磐線で途切れるので跨線橋で向こう側へ。流山街道に入ったらもうすぐ水戸街道・松戸宿だ。

坂川を渡った先を左に曲がると江戸川堤防の下に「松戸宿碑と説明板」(左)が建てられている。ここは江戸川を渡船してきた旅人の松戸宿入口で傍示杭(境杭)が建てられていた場所。

街道に戻り今度は右の路地を入った先の「松龍寺観音堂」(左)へ。籾殻(すくも)塚稲荷の籾殻から現れたという聖観音菩薩が祀られている。面白いのはここで行われる観音様の縁日「四万六千日」。 またの名を「とうもろこし市」とも呼んでいる。門前参道で とうもろこし が売られ、参詣者がこれを食べると雷に会わないのだとか。

街道に戻る途中に見たのは「坂川の河津桜」(左)。今まさに満開。  昨年、 水戸街道を歩いた時はここで桜祭りが行われ豚汁などを御馳走になったがその時は2月19日。今年は1ヶ月近く遅いようだ。

街道に戻ると斜め向こうに松戸郵便局が見えるが ここは「脇本陣跡」(右)。だが往時の面影を残すものは何も無い。

郵便局先の交差点を左に曲がるとマンションの前に「本陣跡地碑」(左)が据えられている。伊藤惣蔵家本陣は水戸家をはじめ土浦藩や相馬藩など十数家の大名が利用していたという。

平成16年(2004)までは本陣建物があったのだが残念ながら解体され当時の遺構は無くなってしまった。
と思ったら この先の春雨橋を渡り右へ曲った先のポケットパーク「本陣敷地内の敷石」(右)が敷かれていたのです。少しでもいいから残してくれたとは嬉しいじゃないですか。

交差点に戻り先へ進むと「松戸名産 茄子のよいち漬」(左)と染め抜かれた紺のノボリが立っている。松戸に那須与一?
店に入り購入がてらご主人に話しを聞くと、その昔、小茄子のことを「よいち茄子」と呼んでいたのだそうだ。
ところで、この店の名が三河屋。松戸と那須と三河、変な取り合わせだね〜

三河屋の対面に石造りの鳥居が見えるが ここは「松戸神社」(右)。日本武尊が東征の際、随行の者と待ち合わせした場所に社殿が建てられたという。

街道に戻り数分、春雨橋の前後にある古民家が昔の商店の雰囲気を味わせてくれる。

「栄泉堂松岡」は創業100年の老舗
和菓子店。レトロな雰囲気の店内が気に
いったが、建物は明治末頃の建築。
栄泉堂の斜向かいにある「やまだ屋」
元板金店。建物の建築年代は不明。

コメント:平成27年9月の確認では
      解体されている。
「福岡家住宅」 の建物は明治末の
建築。福岡家は江戸時代から炭や薪を
扱う豪商だった。
すっかりマンションにかこまれてしまった
「旧原田米店」の建物は昭和初期の
建築だが、創業は元文2年(1737)。
今も対面のマンション一階で営業中。

福岡家住宅先の春雨橋を渡ると「松戸宿 坂川の歴史」(左)と刻まれた石碑が据えられている。
これによると「ここには古くから水路があり橋は水戸橋と呼ばれていた。後に川の名を坂川、橋を春雨橋と言う」と記されている。春雨橋とは なんとも情緒ある名前だが、実はコンクリートの無粋な橋。

その先の宝光院入口辺りは「千葉周作修行之地」(右)である浅利道場があった場所。周作は後に修行の旅に出て北辰一刀流を編み出している。

街道をもう少し先まで歩き西蓮寺横を左に入ると江戸川の堤防に突き当たるが この辺りは「納屋川岸(左)があった場所。
江戸川舟運の舟問屋及び名主として松戸の繁栄に貢献した青木源内家の黒板塀が僅かに往時の繁栄ぶりを偲ばせてくれる。

江戸川堤に上がると彼方に「常夜灯」(右)が見えるではないか。かつて、「通運丸」(右)という客船が就航していたが、その舟運復活を願って常夜灯を設置したのだとか。

鮮魚街道の旅はここで終わりとなった。銚子から日本橋までの鮮魚の流れを簡単に記しておこう。

夕方、銚子に水揚げされた鮮魚はすぐに内臓を取り血抜きされて笹の葉に包まれ高瀬舟に乗せられて利根川を北上。早朝に布佐河岸で馬に積み替えられ30数キロの陸路を
通って納屋河岸へ夕方に到着。再び舟に乗せられ江戸川を下って深夜から早朝に日本橋の河岸へ到着。つまり、昨日の夕方水揚げされた鮮魚は今日の夕方 納屋河岸に
到着し、翌早朝に日本橋の魚市場で競りにかけられた。

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