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西浦賀道 道中記 

①戸塚から鎌倉まで前半   ①戸塚から鎌倉まで後半  ②鎌倉から葉山一色まで前半  ②鎌倉から葉山一色まで後半  ③葉山一色から大津まで

➁鎌倉から葉山一色までの後半
横須賀線名越踏切りから葉山一色まで
街道地図

西浦賀道の旅 2回目は鎌倉から葉山一色まで。 浦賀道沿いの古刹を訪ね、鎌倉七切通しの一つである 「名越切通し」 を越えて
逗子に入る。逗子から葉山へかけては海岸沿いの道を歩き、葉山の元町交差点から内陸に入り三浦半島を横断。大津で東浦賀道に
合流して浦賀奉行所跡へ向かうのだが、今回は名越切通しから葉山一色まで。

 平成29年6月12日

JR横須賀線の踏切りを渡り、題目碑道標前を通り、道なりに1~2分歩くと「名越切通し入り口」(左)の上り坂。 「名越切通 」の表示があるので迷うことは無いだろう。

この先はずっと上り坂。JR横須賀線のトンネル入り口辺りまで上ると「庚申塔と地蔵」(右)が。造立年代は分からないが江戸時代からここで旅人の安全を見守っていたのだろう。

この先も厳しい「上り坂」(左)が続くが 名越 の名の由来はこの道が峻険で 難越(なこし)と呼ばれたことからと伝えられている。

息を切らしながら上りきると道の真ん中に「置き石」(右)と呼ばれる大きな石が2個。敵の侵入を防ぐために置かれた、と云われているがその効果は疑問。地震などで崩れ落ちてきたのではないかと。

置き石のすぐ先が「三叉路」(左)でこの辺りが名越切通しの峠。名越切通し標柱や行き先案内板が設置されている。

この道は鎌倉から三浦半島へ通じる交通路で、吾妻鏡の天福元年(1233)8月18日条に名越坂として初めて登場。 明治16年(1883)にトンネル道路が開通するまでは重要な幹線道路であった。

三叉路の先から「切通し」(右)の下り坂。幕末、黒船来航で幕府の役人が忙しく行き交ったのがまさにこの道。

切通しの途中に「まんだら堂やぐら群」(左)と呼ばれる国指定史跡がある。 コメント:見学期間が限定されているので注意
13世紀後半から15世紀にかけて造られた150穴以上の葬送遺構。鎌倉には死者を弔うやぐら(横穴式の納骨窟)が多いが、これだけまとまっているのは他に見当たらない。

この先も切通しが続くが圧巻は「第一切通し」(右)。巾が1mに満たない狭い切通しは敵の侵入を防ぐため、と云われていたが発掘調査の結果、何度かの地震によって岩肌がせり出したためなのだそうだ。


第一切通しを過ぎると亀が丘団地の住宅が目の前に。
この先は団地東側の急坂を一気に駆け下りていくのだが その途中に「庚申塔」(左)や五輪塔がまとめられた一角がある。庚申塔をよく見ると三猿が丁寧に彫られているではないか。なんだか可愛いね~

坂を下りきった旧道は県道と交差して横須賀線を横切っていたはずだが突き当りに「防災倉庫」(右)が設置され行く手を阻んでいる。ここは県道を歩くしかないようだ。

県道を5分ほど歩き横須賀線の踏切りを渡ると先ほど倉庫で阻まれた浦賀道の旧道に復帰。
踏切の先を右へ曲がるのだがちょっと寄り道を。左へ曲がって数分、マンションの塀ぎわに多数の「庚申塔」(左)が。

この先は再び横須賀線の踏切りを渡り 県道311号を横断して住宅街の中の細い道を南下していく。途中に「地蔵尊と五輪塔」(右)が祀られた一角があるが詳しいことは分からない。

住宅街の中の細い道を20分、田越川に架かる「富士見橋」(左)を渡るがこの橋は昭和63年(1988)に京都五条大橋を模して架橋。元々は田越橋という橋名であったが葉山御用邸ができた年に架け替えが行われ富士見橋と改名。

橋を渡り右へ1~2分歩くと「蘆花・独歩ゆかりの地碑」(右)が。横須賀線が開通すると多くの文人が訪れているが徳富蘆花は明治30年(1897)から4年間ここで過ごし 不如帰 を書き上げている。また国木田独歩は明治29年(1896)に柳屋に逗留し 欺かざるの記 を。

数分歩くと国道134号と交差。浦賀道はここを横断していくのだが左へ曲がって寄り道を。

数分先の国道際に鎮座する田越神明社は勧請年不明だが、「鳥居」(左)に元禄16年(1703)6月22日と刻まれていることから この頃の建立と推定。因みに、この前年12月は赤穂四十七士討ち入りの年であった。

国道を横断して10分、風格ある日本家屋は江戸時代初期に鐙摺港近くの料理茶屋として創業の「日蔭茶屋」右)。大正5年(1916)に発生した日蔭茶屋事件で一躍有名に。

日蔭茶屋と反対側の路地を入ると「多数の石仏」(左)が。ここは三浦三十三観音霊場の第24番 海寶寺。石仏群の隣には真っ赤に着飾った六地蔵も。

海寶寺隣の「須賀神社拝殿軒頭」(右)にユニークな彫刻が施されている。名付けて波乗り兎。埼玉県浦和の調(つき)神社は狛犬ならぬ狛兎であったが調べてみると法隆寺の屋根瓦にも波乗り兎が。

浦賀道に戻り5~6分、山の中腹に「諏訪神社」(左)が見える。古来から風占いの神として漁業者から篤い信仰があったという。 この神社は狛犬でも狛兎でもない狛猿だというので階段を上ってみたら
 
諏訪神社から5~6分、祠の中に「脇町の庚申塔」(右)が10基。各所から集められたものだろうがその中に庚申塔道標が1基。明和9年(1772)造立の庚申講中と刻まれた文字庚申塔が道標を兼ねており、左右側面に「右みさ起みち」「左うらがみち」と。

脇町の庚申塔から数分、三叉路を左に入る道が旧浦賀道。

数分歩くとあずま町内会館手前の立派な覆屋の中に「六地蔵」(左)が鎮座。造立年代は不明だが江戸時代から旅人を見守っていたのだろう。
浦賀道はその先の 葉山元町交差点 で県道207号と分かれ左へ曲がって行く。

亀井戸橋を渡った先の長徳寺境内に8基の石塔があるが その中に「庚申塔が5基」(右)。離れた右側の庚申塔は三猿の上に六字名号が刻まれた文字庚申塔で延宝3年(1675)に造立されたという古いもの。

浦賀道は長徳寺先の木の下交差点で右へ曲がり5分ほど歩いたら国道134号に合流。

国道を数分、幼稚園の後ろにある洋風建築は登録有形文化財の「イエズス孝女会修道院」(左)。元々は東伏見依仁親王の別邸として大正3年(1914)に建てられたが現在は修道院の所有となっている。

三浦道はこのすぐ先で左の旧道に入って行く。
旧道は再び国道に合流するが その手前に立派な「地蔵堂」(右)があり子守地蔵と天保2年(1831)造立の道標を兼ねた地蔵が安置されている。道標に刻まれた文字は「右うら賀 左やま屋」

国道を数分歩いたら葉山町消防署の先で再び旧道へ。この先は三叉路を何回も通り過ぎていくので慎重に歩かねば。

7~8分歩いた先の三叉路は右が浦賀道だが左へ入ると「平松地蔵堂」(左)があり堂内に小さなお地蔵さんが鎮座。 
かつて、ここには松の大木があったが明治の初めに枯れてしまったのだとか。その根本を見るとお地蔵さんに似たコブがあったそうだ。そこでそのコブを使ってお地蔵さんを彫り上げたのだという。

元に戻り坂を下って行くと「夜泣き石」(右)なる大石がある。夜泣きする子供を連れて一緒にお参りすると夜泣きが止むのだとか。残念なのは周囲に雑草が生い茂り 間もなく隠れてしまいそう。

夜泣き石の後方に「六地蔵や庚申塔など11基の石塔」(左)があるのだがここも雑草に埋もれた状態。

浦賀道はこの先で県道27号に合流するがすぐに左の旧道へ入って行く。その入口近くの祠の中に「笠付き庚申塔」(右)が1基。この庚申塔は安永2年(1773)の造立で「一色前田の庚申塔」と呼ばれている。

浦賀道旧道は再び県道に合流。その先にバス停が見えたので今日の旅はここまで。

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