➁鎌倉から葉山一色までの前半
鶴岡八幡宮二の鳥居から横須賀線名越踏切りまで |
街道地図 |
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西浦賀道の旅 2回目は鎌倉から葉山一色まで。 浦賀道沿いの古刹を訪ね、鎌倉七切通しの一つである名越切通しを越え
逗子に入る。逗子から葉山へかけては海岸沿いの道を歩き、葉山の元町交差点から内陸に入る。その先は三浦半島を横断して
大津に向かうのだが、今回は葉山一色までの旅とした。その前半は名越切通しの手前までを記した。 |
「鶴岡八幡宮二の鳥居」(左)前から出発。
若宮大路を数分歩いた先の「大巧寺」(右)は源頼朝 縁の寺。
頼朝がこの寺で行った戦評定により大勝したことから それまでの大行寺を「大巧寺(だいぎょうじ)」に。
大巧寺の庭を見ずに通り過ぎるのはもったいないので寄道を。 山門を入ると山野草が植えられた小径が本堂まで続くが なんとも風情ある景色が楽しめる。 |
大巧寺から小町大路(小町通りではない)に出て海岸方向に数分歩くと鎌倉十橋の一つ「夷堂橋」(左)。かつて、この橋の袂に夷堂があったことからこの橋名が付けられた。
橋手前の「本覚寺」(右)がある場所は幕府の裏鬼門にあたることから源頼朝が鎮守として夷堂を建てた場所。佐渡流罪を許された日蓮上人が布教活動の拠点としたのが夷堂だったという。
その後、鎌倉公方・足利持氏がこの地に寺を建て 日出上人に寄進したのが本覚寺。 |
本覚寺の山門を入った右手の「夷堂」(左)は昭和56年(1981)に再建されたものだが ここは頼朝が建てた夷堂があった場所。今も正月の初えびす、本えびすは大変な賑わい。
本堂の左手にある宝篋印塔は鎌倉時代に活躍し今も国宝として残る名刀の作者、「五郎入道正宗の墓」(右)。 |
若宮大路に戻って海岸方向へ歩き下馬交差点で左に曲り名越切通しまで続く大町大路に入って行く。 |
JR横須賀線の踏切り手前を右に入った奥は五代執権北条時頼の夫人が建てたと伝わる「延命寺」(左)。本堂に安置されているのは裸地蔵と呼ばれる身代わり地蔵。伝説によると北条時頼夫人が双六で負け衣服を脱がなければならなくなったとき 裸のお地蔵さんが現れ夫人の身代わりになったという。
墓地の一角に「古狸塚」(右)と刻まれた狸の墓がある。この寺に棲みついた狸が和尚と仲良くなり町の人々からも愛されていた。嘉永2年(1849)にその狸が死ぬと人々は墓を建て供養。 |
JR横須賀線の踏切を渡り数分、路地を入った奥の「教恩寺」(左)は平清盛の五男、平重衡 縁の寺。
寿永3年(1184)の 一ノ谷の合戦 で捕えられた重衡が鎌倉へ送られた際、源頼朝より一族の冥福を祈るようにと与えられた阿弥陀如来像が教恩寺の本尊。運慶の作だそうだ。
大町四ツ角を過ぎ左へ入った奥に鎮座しているのは「八雲神社」(右)。古くは祇園天王社と称しており永保年間(1081~83)、奥州へ向かう途中の新羅三郎義光が勧請したと伝えられている。 |
街道から路地に入った奥の別願寺墓地に大きな宝篋印塔が見られるがこれは第4代鎌倉公方「足利持氏供養塔」(左)。 四方に鳥居が浮き彫りされているが これは持氏の怒りを鎮めるためなのだとか。
その先の「上行寺山門」(右)の裏側欄間に飾られているのは左甚五郎の作と表示された龍の彫刻。この寺は癌封じの寺としても知られた存在だ。
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すぐ先の「安養院」(左)は北条政子の開基であると伝えられている。政子が夫の源頼朝の菩提を弔うために創建した長楽寺が焼失したため当地に移転し政子の法名である安養院に改称。
本堂の裏に大小2基の宝篋印塔があるが説明板によると 小さい方は「北条政子の墓」(右)と伝えられている。
コメント:亀ヶ谷の寿福寺に北条政子の墓があるので、こちらは供養塔だろう。
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浦賀道はこの先のY字路で県道と分かれ左の細い道に入って行く。 |
数分歩くと十字路となるが ここでちょっと寄り道を。
左折した奥の「妙法寺」(左)は日蓮聖人 縁の寺。日蓮が鎌倉に入り最初に草庵を結んだ場所がこの地。のちに護良親王の皇子である楞厳丸(りょうごんまる)が父母の供養のためこの寺を建てたという。
この寺は苔寺としても有名。本堂横の仁王門から法華堂に向かう階段が「美しい苔の石段」(右)。京都西芳寺に勝る、とは言わないが素晴らしい。苔保護のため通ることはできない。法華堂へは脇の石段を。 |
十字路まで戻ると目の前は「安国論寺」(左)。この寺も日蓮上人 縁の寺。当地に小庵を結び「立正安国論」を執筆。北条時頼に建白したのが文応元年(1260)であった。
山門を入り本堂までの参道際にあったのは「正岡子規文学碑」(右)。
鎌倉の 松葉が谷の道の辺に 法を説きたる日蓮大菩薩 子規
子規は2度鎌倉を訪問しているが安国論寺を訪れた時詠んだもの。 |
JR横須賀線の踏切を渡ったら左に曲がる線路沿いの細い道が旧道だが ここには入らず寄り道を。
向かった先は日蓮聖人 縁の長勝寺。伊豆に配流となった日蓮を保護した地頭の石井藤五郎長勝が自邸に「法華堂」(左)を建て日蓮に寄進したのが始まりと伝えられる。現在の建物は鎌倉時代末期の造営。
長勝寺を出たら浦賀道に戻らず県道を逗子方向に50mほど歩くと鎌倉十井の一つ「銚子の井碑」(右)が道路際に。狭い路地を入ると銚子の井がありました。 |
路地の突き当りが横須賀線沿いの旧道。右へ曲がると鎌倉五名水の一つ、「日蓮乞水(こいみず)」(左)が柵の中に。
名越切通しを越えて鎌倉に入った日蓮が水が飲みたくなり持っていた杖で地面を突きさすと水が湧き出したという。後ろの題目碑に刻まれた文字は「南無妙法蓮華経日蓮水」。
横須賀線名越踏切りを渡り右へ曲がるとかなり風化した石塔があるが これは「題目碑道標」(右)。「右 江の島 左**」という文字がかろうじて読める。 この先からいよいよ名越切通しへの上り坂。 |
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