D木崎宿きざきじゅく |
例幣使街道5番目の宿である木崎宿は例幣使一行が小休止するにすぎない小さな宿場であったが飯盛り女が
いたことから街道最大級の宿場に発展。最盛期には60軒以上の旅籠と200人以上の飯盛り女で大変賑わった
宿場であった。しかし今の木崎宿に往時の面影を探すことは難しい。
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街道地図 |
境宿を出た旧例幣使街道は東武線の踏切りを越え、国道17号の高架下を通り、国道354号バイパスを横断して新田中江田町に入っていく。
新田中江田町の交差点を右へ曲って数分、左奥の彼方に見える鳥居は「矢抜神社」(左)。当神社は江田行義(新田氏の始祖義重の子孫)が中江田村森下に祀られていた矢抜神社を分社・勧請したと伝えられている。神社の裏にわずかな盛土があるが ここは横穴式石室を持つ古墳。
矢抜神社から数分の左奥は「来迎寺」(右)。鎌倉時代の作と伝わり太田市指定重要文化財の仏頭が保存されている。残念ながら見ることはできない。 |
来迎寺から十数分歩いた先、比較的新しい道標の隣は「三本辻地蔵堂」(左)。この地蔵尊は かつて利根川中瀬の渡しに通じる道があったこの三叉路に、椎名長兵衛なる人物が西国・坂東・秩父の百ヵ所の観音札所を参詣した記念として正徳5年(1715)に建立。
ほどなく木崎宿に入るがその入口辺りで目に入るのは「医王寺の大銀杏」(右)。樹齢が200〜300年(かなり大雑把)という雌雄2本の巨木。幹周り3m以上、樹高も20m。 |
医王寺から数分の所にある造り酒屋は明治8年(1875)創業、日本誉の蔵元「山崎酒造」(左)。店舗の裏に廻ると醸造蔵があり造り酒屋の雰囲気たっぷり。女将直筆のオリジナルラベルが人気だとか。
その先の交差点に建てられている石柱は「木崎宿碑」(右)。ここは足尾銅山で産出した銅を利根川の平塚河岸まで運ぶ銅(あかがね)街道との交差点。今は広ーい交差点に改修され昔の面影は微塵も無い。 |
木崎宿には60軒以上の旅籠があり本陣もあったということだが今は表示も無ければ古民家すら探す事ができない。交差点から数分歩いた先の さいとう接骨院が「問屋場跡」(左)だが表示は無い。その手前の広場が茂木本陣跡ということだが、それらしき遺構や表示がないので定かではない。
さらに数分先の交差点を右に入った奥が木崎宿の「総鎮守・貴先神社」(右)。祭神は大国主命の后(きさき)である須勢理毘売命であることから貴先神社となり、それが木崎の地名になったと云われている。
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さらに数分歩いた左奥の寺院は長命寺。その入口に萱葺きの「地蔵堂」(左)があるが ここに祀られている子育て地蔵は「色地蔵」(右)と呼ばれている。
木崎音頭の一節に
木崎下町の三方の辻にお立ちなされし石地蔵さまは、男通ればニコニコ笑い、女通れば石持て投げる、こらがヤー本当の色地蔵様だがヤー
木崎宿には多くの飯盛り女がいたことは冒頭で説明したが彼女たちは遠出が制限されていたため宿外れのこの地蔵様に参詣し心の安らぎを得ていたのです。多くの女性が訪れたことからいつしか色地蔵と呼ばれるようになったのだとか。 |
街道はほどなく「木崎宿碑」(左)が据えられた三叉路に差し掛かる。真っ直ぐ行きたいところだが旧例幣使街道はここを左に曲がり住宅街に入っていく。
数分歩くと住宅が途切れ 橋の先は舗装されていなければ往時の面影を想像できる「田んぼの中の一本道」(右)。だが、日陰が全く無いこの道は夏場は厳しい。
この先太田宿までは約1里半、見所はあるだろうか。 |
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