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H天明宿てんみょうじゅく                               街道地図
平安時代の天慶2年(939)、藤原秀郷が連れてきた鋳物師(いもじ)によって鋳物産業が発展。室町時代以降は
茶の湯の流行などでその名を京都にまで知られた天明であった。慶長7年(1602)に佐野藩初代藩主となった
佐野信吉によって整えられた町並みは例幣使街道の開通により宿場町としても発展。
例幣使一行は天明宿泊まりを習わしとしていた。

 平成24年10月5日

梁田宿を出てあちらこちら見学したり食事をしたりでかれこれ2時間、到着したところは旗川の堤防上。
これまでは足利市であったが向こうに見える「白旗橋」(左)を渡ると佐野市。向う先は例幣使一行も宿泊した天明宿。

橋を渡り上流方向へ100mほど歩いて旧道に復帰。旧道は車が少なく長閑な道だ。猛暑日の続いた今年は今日も暑い!だが「コスモス」(右)が満開で今まさに秋本番。 

JR両毛線踏切りを渡った先で見えた大谷石の蔵は「芦畦(あしぐろ)の獅子舞収蔵庫」(左)。約700年前に始まったと云われる獅子舞で、旧暦6月に3頭の獅子舞が町内を練り歩くのだそうだ。

収蔵庫の隣に「亀に乗った常夜灯」(右)が建てられている。写真では分かり難いが重みで押しつぶされてしまったような亀がかわいそー。

長閑な旧道を歩いていると「古民家が1棟」(左)。1階こそガラス戸に替わっているが2階の格子戸がいいねー。

再び両毛線の踏切りを渡り県道を2回ほど横断すると秋山川に突き当たるがここはかつての「猿橋付近」(右)。だが今は橋が無い。左手の大橋を渡ると街道に戻れるが ちょっと寄り道したいので右手の中橋を渡ることに。

中橋から数分歩くと涅槃寺の「日限地蔵」(左)が見られる。日を決めて願をかければ叶うというお地蔵様は天和2年(1682)、江戸・松秀寺より勧請したのだとか。

その先の交差点を左に曲ったところの大石は「万葉歌碑」(右)。たんなる大きな石と通り過ぎるところであった。
 下野 安蘇の川原 石踏ず 空ゆと来ぬよ 汝が心告れ    巻14−3425
恋歌ですかね。安蘇の川原は、すぐそばの秋山川だそうです。


寄り道の目的地は「佐野厄除け大師」(左)。藤原秀郷が創建したと伝えられる当寺は慶長7年(1602)に当地へ移転。元三慈恵大師が祀られていることから厄除け大師として多くの参拝客を集め大変な人気。

その境内に「田中正造翁」(右)の墓がある。足尾銅山鉱毒事件を告発した政治家として有名だが、没後、翁ゆかりの当寺院(惣宗寺)で本葬が行われたという。

正造翁の墓の隣に据えられているのは「石川啄木歌碑」(左)。
   夕川に 葦は枯れたり 血にまとう民の叫びの など悲しきや   石川啄木
盛岡中学3年だった啄木は鉱毒事件を天皇に直訴した正造翁に感動、三十一文字に託したのだった。

山門を入ると目に入ったのが「黄金輝く梵鐘」(右)。日本一大きな黄金の梵鐘だ
こちらも黄金輝く「麗水観音」(右)。 あるとき盗まれてしまったのだが、雨降る朝、駐車場にひっそりたたずんでいたのだとか。

 ここから平成24年10月25

街道に戻る前に「熊野神社」(左)に寄り道を。 間口1間、奥行き1間という小さな神社だが祭神は伊弉那岐(イザナギ)命と伊弉那美(イザナミ)命の夫婦神。

境内裏手に石碑が2基建てられているが左側の石碑は「勤皇の志士 出流天狗殉難碑」(右)。慶応3年(1867)、倒幕運動に加わった若者は出流山満願寺に立てこもったが多くが幕府軍が組織した鉄砲隊の犠牲に。残った41人も 近くの秋山川・天明河原で首を切られたという。なんとも惨たらしい話である。

街道に戻って天明宿を歩こう。
真っ直ぐ続く街並みには蔵造りの家がちらほら見えるが5分ほど歩くと存在感たっぷり「古民家が3棟」(左)。

その中の1軒、味噌まんじゅうが売りの「まちの駅 新井屋」(右)は明治10年(1877)ごろに建てられたという見世蔵で、もともとは土佐屋という調剤薬局だった。
お勧めは かき氷。一杯500円とちょっと高目だが日光天然氷・四代目徳次郎を使用しておりその口当たりは絶品。

まちの駅 の先を左に入った奥は天明宿の氏神様星宮神社。参道の「銅造鳥居」(左)は享保20年(1735)に氏子が奉納したもので佐野市の有形文化財。
階段を上がった先の社殿は延宝4年(1677)に逝去した井伊直澄の遺金などで天和3年(1683)に再建されたもの。

街道に戻り まちの駅 から数分、「大坂屋」(右)は弘化元年(1844)創業の老舗和菓子店。天明鋳物の天明釜・梵鐘・吊り灯篭などをモチーフにした天明最中がお勧め。

 

大坂屋先の交差点を左に入り5分ほど歩いた所の赤い鳥居は「孫太郎神社」(左)。今を去る1060有余年前、平将門を討った田原藤太秀郷により創建されたという歴史深い神社。後年、荒廃した神社を孫太郎と称したた秀郷の子孫・足利家綱が再建に尽力したことで里人達は孫太郎明神と呼び習わしたという。

街道沿いの群馬銀行前に設置されたプレートに「・・・本陣があったのもこの界隈です。・・・・」と説明されている。定かではないが銀行の敷地辺りが「天明宿本陣跡」(右)のようだ。

街道沿いでは屋根付き看板や黒漆喰の土蔵なども見ることができます。
今では滅多に見られなくなった
屋根付き看板です。
小沼呉服店も屋根付き看板を
掲げている。
黒漆喰が塗られた土蔵は白壁土蔵とは
違ったどっしりとした土蔵です

天明宿は城下町として整備されたが その城址が近いのでちょっと寄り道を。

JR佐野駅の向こう側にある城址へ向う途中、「天明鋳物で造られた電話ボックス」(左)がありました。さすが!鋳物で栄えた宿場町。上に金色の擬宝珠が乗っているのがなんとも。

「佐野城址」
(右)は駅のすぐ裏にあり 三の丸・二の丸・本丸・北出丸が直線的に配置された平山城。
外様であった佐野氏の居城・唐沢城は堅城といわれたため幕府から廃城を命じられ現在地に城を築き直したのだが慶長19年(1614)に突然改易となりほどなく佐野城も廃城となってしまった。

宿場町の雰囲気が残っていた旧天明宿も佐野駅入口三叉路まで。その先はごく普通の町並み。

三叉路から数分、右の細い道に入ると「荒澤不動尊」(左)のノボリ旗が。一説には田原藤太秀郷が唐沢山麓に祀ったのが起源と云われているが火除けのお不動様として町民に人気。

そのすぐ先に見えるのは「徳雲寺赤門」(右)。徳雲寺には由緒書きなどが見当たらないため詳細は分からないが徳川ゆかりの寺院に赤門が許されていたので当寺も関係するのかもしれない。

街道に戻り数分先の三叉路を左に曲がる道が旧例幣使街道。
左に曲がって数分、真新しい山門の奥は「浄泉寺」(左)。天明鋳物の銅造半鐘が保存されているそうだが見ることは出来ない。代わりに庫裏から妙なるチェロの調べが。しばし耳を傾けることに。

浄泉寺の斜め先は「西宮神社」(右)であるが由緒書きを読むと蛭子(ひるこ)神社と記され、えびす様、と記されている。ところが、祭神は蛭子大神ではなく 事代主(コトシロヌシ)神。ちょっと混乱しているかな。

西宮神社から数分歩いたら またまた寄り道を。行く先はJR両毛線踏切り手前を右に入り7〜8分歩いた所の「引地山観音堂」(左)。後醍醐天皇から賜った観音像が幾多の変遷を経てここに安置。

また、天文14年(1545)に藤原宣綱によって奉納された天明鋳物の 鋳銅梅竹文透釣灯籠 は国指定重要文化財。残念ながら佐野市郷土博物館に収蔵されているため見ることはできない。

すぐ隣は同じような造りでちょっと小ぶりの「日枝神社」(右)。観音様と神様が隣合わせとは、まさに神仏混淆。

街道に戻り踏切りを渡ると見渡す限り真っ直ぐな道。てくてくと10分、突き当たりまで来たら右に曲る道が例幣使街道。
目の前に立派な本堂の屋根を持つ「妙顕寺」(左)が見えるので寄り道を。 応仁2年(1294)開創で将軍足利義教から寺領三百石を寄進されたり、佐野家の祈願所となるなど由緒ある寺院だ。

妙顕寺裏手の真光寺にも寄り道を。「哀悼の碑」(右)と刻まれた石碑は比較的新しいが裏面に「例幣使街道沿いの遊郭に生きた女性たちの御霊が安らかになることを  合掌」 と刻まれている。

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