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大山街道 田村道  道中記

①四ツ谷不動追分から田村十字路まで    ②田村十字路から上粕谷まで

東海道藤沢・四ツ谷不動追分から田村十字路まで  街道地図

田村道のスタート地点は東海道藤沢宿の先、四ツ谷不動追分にある大山阿夫利神社一の鳥居から。旧道を神社や寺院を見学しながらかれこれ1時間半
ほど歩き小出川に架かる大曲橋を渡ると寒川町に入る。さらに20分ほど歩くと景観寺前交差点で旧中原街道に合流。
寒川町一之宮を通って相模川に架かる神川橋を渡ると平塚市田村。ほどなく旧田村十字路に差し掛かるが旧中原街道はここで左に曲がり茅ケ崎へ。
田村道は右へ曲がり、すぐに左へ曲がって国道129号の田村十字路を越えていく。

令和2年1月29日

東海道線辻堂駅から北に約20分、国道1号四ツ谷交差点近くが旧東海道と田村道が交わる「四ツ谷不動追分」(左)。 右奥に大山阿夫利神社一の鳥居 が見えるが、ここが大山街道田村道のスタート地点。かつては多くの茶屋が立ち並び大山参詣の旅人で賑わっていた。

追分の袂に鎮座しているのが「四ツ谷不動」(右)。 延宝4年(1676)に江戸横山町の講中が建てたもので台座部分が道標となっており、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」と刻まれている。堂外の道標は初代のもので江戸浅草蔵前の講中が万治4年(1661)に建てたもの。

一の鳥居をくぐり3~4分、三叉路際の祠に鎮座しているのは「折戸地蔵」(左)。地元の人達に大事にされているようでマフラーが何枚も重ねて巻かれているが、春になったらさぞ暑つかろうに。
祠横の句碑に 右野道 地蔵も花も笑ひけり 薫風 と刻まれている。作者の薫風さんは地元の方だそうです。

旧道、そんな雰囲気の残る狭い道を10分ほど歩いた先の五差路は「餅塚の辻」(右)。かつてこの辺りは舟で田植えをするほどの低湿地帯で収穫も芳しくなく年貢に苦しんでいた。ところが隣の辻堂村がこの土地を引き取ってくれたので餅をついて喜んだという。   田村道はこの辻を右へ曲がって行く。

かれこれ30分ほど歩いた所にある道路際の石碑は「松林村役場跡碑」(左)。明治時代、近隣の小さな村が合併し松林村が誕生。その後も合併が行われ現在の茅ケ崎市となったが、傍らの説明碑によると、「この前を通る大山街道は、田村の渡し(寒川)で相模川を渡る大山参りの近道で、・・・・・・」とある。

5分ほど歩くと道路際に神明型の鳥居があるが、その奥は「赤羽根神明大神社」(右)。由緒によると、十一世紀後半に源義家(八幡太郎義家)が建立と云う。慶安2年(1649)には三代将軍家光より社領六石の御朱印を賜ったのだとか。

田村道に戻り数分、墓地の一角にある覆堂の中に鎮座しているのは「赤羽根の六地蔵」(左)。由緒ありそうだが詳しいことは分からない。

さらに4~5分歩いた先の神社は高田の総鎮守「熊野神社」(右)。高田村の領主大岡忠高公が紀伊国熊野本宮から熊野大神を勧請し万治元年(1658)に創建。忠高公はかの有名な名奉行・大岡越前守の父君。

かれこれ30分ほど歩き小出川に架かる大曲橋まで来ると道路際に「河童徳利伝説」(左)の看板が建てられている。働き者の五郎兵衛と河童の話だが、こちらをどうぞ

大曲橋を渡ると寒川町に入り大きく左へ曲がていくが ここの地名は「大曲」。しばらく歩いたら「大曲神社」(右)に寄り道を。元々は十二天社と呼ばれ関東三大奇祭の一つ浜降祭に神輿を出していた大曲地区の鎮守。明治初年(1868)に十二神社と改称し、平成22年(2010)に下大曲神社と合祀され現在は大曲神社と称している。

街道に戻り10分ほど歩くと景観寺前交差点で南進してきた旧中原街道と合流し寒川町一之宮に入っていく。

交差点際の景観寺は行基の開山で創建は天平字宝元年(757)と伝わる古刹。 境内にある「宝篋印塔」(左)は景観寺の僧念求が全国の霊場を3年半かけて行脚し巡礼帳を奉納。享保12年(1727)に満願成就してこの塔を建立。

景観寺のすぐ先の「八幡大神」(右)は由緒に「元禄10年(1697)の創立と伝わるが、平安時代の和名称に『佐牟河波伊知乃三夜牟良(さむかわいちのみやむら)』と記されていることから、古くより奉祀されていたと推定される」 とある。ということは平安時代から続く神社、千年も守り続けているとはすごいね~

八幡大神を出て5分ほど歩くと広場の入口に「梶原伝七士の墓」と記された案内板があるので広場の奥へ。

広場の突き当りを右へ曲がった先が「伝 梶原氏一族郎党の墓」(左)。 正治2年(1200)、梶原氏一族郎党が上洛の途中、清見関(静岡・清水)で討ち死に。留守居役の家臣がここに弔ったと伝わっている。

西町集会所の壁面にある梶原景時解説板によると、平家に敗れた源頼朝を平家方の梶原景時が発見したが討たずに救ったことが景時と頼朝の出会いで、後に頼朝の家臣となり一之宮を拝領。
その「景時の館跡」(右)がすぐ先の天満宮。頼朝の死後、鎌倉を追放された景時は再起を期し上洛しようとしたが清見関で北条方の軍の攻撃を受け討ち死に。後に里人が館跡地に天満宮を創設したという。

田村道(旧中原街道)は県道46号(産業道路)を横断し一之宮小学校の前を通っていくのだが、小学校周辺は大山詣でが盛んだったころの「一之宮宿があった辺り」(左)。旅籠や茶屋があり賑わっていたそうだが今はその面影は全く無い。

その先の三叉路を右へ行く道が田村道(旧中原街道)だが、左に進んで「八角広場」(左)に寄り道を。ここはかつて西寒川駅があった場所で、第二次大戦中は相模海軍工廠の引き込み線として使われていた。 昭和35年(1960)に旅客駅として開業したが昭和59年(1984)に廃線。現在は遊歩道として整備されており一部区間には線路が残され往時の面影を感じることができる。

数分先の「一之宮不動堂」(左)に鎮座している不動明王は江戸時代初期の作。宝暦3年(1753)に修理が行われたいう記録がある。ここは大山詣での旅人で賑わった場所。不動堂前の不動明王道標は「右大山道 左江戸道」。

街道はこの先で右に曲がり目久尻川を渡り圏央道の橋脚下を歩くのだが、この道がなんとも殺風景。この先に田村の渡しがあったが今は神川橋で相模川を越えていく。橋を渡り土手を60mほど下ると「田村の渡し跡碑」(右)が見られる。「田村の渡し」は神川橋が開通する昭和28年(1953)まで庶民の足であった。

神川橋まで戻りトンネルを潜ると「田村八坂神社」(左)が鎮座。由緒は不明だが、蝦夷(えみし)征伐に向かった坂上田村麻呂が当社に戦勝祈願を行ったと伝えられる古社。江戸時代には牛頭天王社と呼ばれていたが明治の神仏分離令により八坂神社に改名。

拝殿右側の石塔群の中に「道標が3基」(右)。元あった場所は不明だが、その一基に刻まれた行き先は 「右 大野村ヲ經テ平塚町ニ至ル 左 相川村ヲ經テ厚木町ニ至ル」 。行き先から判断するとこの先の旧田村十字路にあったものかもしれない

旧田村十字路のポケットパークに「十王堂跡碑」(左)が建てられている。天文6年(1537)、相模川で起きた小田原北条氏と河越・上杉氏の合戦で多くの戦死者が出たが、この戦死者を弔うため十王堂一宇が建てられたという。ここは旧中原街道と大山街道田村道が分かれる追分。傍らの「道標」(右)に刻まれた道筋は「右大山道」。ならば右へ。

この先の田村十字路(国道129号との交差点)を越えて行くのだが、交差点近くにバス停があったので今回の街道歩きはここまで。ところが時刻表を見ると、なんと、昼間の便が一本も無い。これは困った。そういえば旧田村十字路の近くで別のバス停を見たなー。

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