府中は、かつては武蔵国(現埼玉南部・東京・川崎・横浜)の国府が置かれた場所で政治・文化の中心地であったが鎌倉幕府の崩壊で衰退。 江戸時代に入ると再び甲州街道の宿場町として、あるいは多摩地区の商業の中心地として賑わいを取り戻した宿場であった。
布田五宿を通り 飛田給駅入口の交差点を過ぎると飛田給薬師堂があり、その傍らは「行人塚」(左)。仙台の松前意仙はこの地で薬師如来像を彫ったのち自ら墓穴を掘り入定したのだという。
「白糸台辺り」(右)から街道の両側に蔵が目立つようになる。また緑豊かな庭を持つ昔からの民家が続き 「旧街道を歩いている」 そんな雰囲気も。途中で発見した常夜灯は嘉永元年(1848)の建立。
旧街道の景色を楽しみながら車返団地交差点まで来ると観音院の駐車場で微笑んでいたのは「六体のお地蔵様」(左)。 表彰台に乗っているような並び方が愉快だ。 観音院横の交差点際に東海道を歩いた時よく見かけた「秋葉常夜灯」(右)があった。秋葉山のご威光がここま届いていたとは驚き。建立は嘉永6年(1853)。
秋葉常夜灯から10分ほど歩いた先の不動尊前交差点 向こう側の「染谷不動堂」(左)には国宝阿弥陀如来立像が祀られている。残念ながら扉が固く閉ざされ国宝のお顔を拝むことはできない。
数分歩き常久八幡宮の前を左に曲がると品川街道にぶつかるが、この道は江戸初期の甲州古道。右に曲がると「一里塚跡碑」(右)と説明板が設置されているが、ここは七番目の常久一里塚跡。
ほどなく「大國魂神社」(左)に到着。景行天皇41年(111)の創祀と伝えられる都内屈指の古社。御祭神は 大國魂大神 で出雲の 大国主命 と同一の神とされる。ケヤキに囲まれた参道を進むと重厚な本殿に到着。この本殿は寛文7年(1667)に四代将軍綱吉によって再建されたもの。旅の安全を念入りに祈願しました。 この神社は府中を代表する神社。平日でも参拝客が絶えないが、5月の例祭 9月の秋季際(くり祭り)は大変な賑わい。
神社の前から京王線府中駅に向かう道は神社の参道で「馬場大門欅並木」(右)と呼ばれる国指定の天然記念物。古くは源頼義・義家父子が欅を寄進し、徳川家康も馬場と一緒に欅を寄進。
欅並木の途中にすっくと立つのは「八幡太郎義家」(左)。源頼義・義家父子が奥州平定の戦勝を祈願して寄進した欅が歴代受け継がれ今日に至っていることを伝えるために建立しのだとか。千年近く後に銅像とは義家もなんとなくこそばゆいのでは。
欅並木の南端に「万葉歌碑」(右)がありました。 武蔵野の 草は諸向き かもかくも 君がまにまに 吾は寄りにしを 巻14−3377 草が風になびくように、私は貴方にひたすら心を寄せたのに 片思いですかな。
7〜8分歩いた所の「高安寺山門」(左)がすごい。大きさもさることながら こちら側に阿吽の仁王像、向こう側は奪衣婆像と地蔵尊像。仁王はともかく 奪衣婆 に衣服を剥がれるのはまっぴらご免。この地は藤原秀郷の館跡と云われ 後に見性寺が建立されたが足利尊氏が全国に安国寺を建立した際 高安寺 として再建。
話は遡って見性寺の時代、兄頼朝の怒りに触れ鎌倉入り出来ない義経、この寺で赦免祈願の写経をしたという。そのとき硯の水を汲み取った井戸が「弁慶 硯の水井」(右)。墓地の奥、秀郷稲荷の横に有る。
奪衣婆に衣服を剥がされることなく街道に戻ったら弁慶坂を下り弁慶橋跡、棒屋の坂を通り京王線の踏切を越えて行く。しばらく歩くと「内藤家の冠木門」(左)が見られる。これだけ立派な冠木門を見るのは初めてだ。内藤家は地元の名主で三千坪の敷地に 二百坪の家屋という想像を絶する大きさ。
まもなく国道20号に合流するがその三角地帯の石碑は「本宿説明碑」(右)。ここは甲州古道時代の宿場だった場所。 コメント:説明碑は撤去され今はありません。
国道20号に合流したら本宿交番前の交差点を左に曲がり寄り道を。南武線下のトンネルをくぐるとNEC府中工場前。守衛所で一里塚を見学したい旨告げると8番目の「本宿一里塚跡」(左)に案内してくれる。この一里塚は甲州古街道沿いにあったもので旧甲州街道からは離れている。樹が植えられ碑も建てられて大事にされているようだ。
旧甲州街道に戻り本宿交番を左に曲がると、ここにも「秋葉常夜灯」(右)があった。度重なる火災に苦しんだ地元民が秋葉神社で 火伏せ の祈祷を行い常夜灯を設けたのが寛政4年(1792)のこと。 この先しばらくは国道20号を歩き谷保天満宮を通って多摩川を渡り日野宿へ。
前の宿場布田五宿へ 次の宿場日野宿へ 表紙へ戻る