草加宿のハイライト 『日本の道百選 日光街道・草加松原 』 素晴らしい! |
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草加宿は街道の整備より少し遅れた寛永7年(1630)に開かれた宿場である。本陣1、脇本陣1、旅籠67軒という規模の宿場であったが、
2度の大火に襲われ、最近はマンションの建設工事があちこちで行われるなど往時の姿が急速に失われつつある。 |
千住宿を過ぎ、竹の塚を過ぎ、国道4号を横断して県道49号に入り毛長川に架かる水神橋を渡ると埼玉県の草加市。 |

10分ほど歩いた右側の「富士浅間神社」(左)は天保13年(1842)に再建されたのだが本殿の随所に素晴らしい彫刻が施されている。残念ながら金網囲いであるため写真写りが大変悪い。
浅間神社から10分ほど歩いた先の交差点右側に見える御堂は「ひあぶり地蔵堂」(右)。
奉公に出ていた娘さん、母危篤を知り暇を願い出たが許されず。ご主人様の家が焼ければ母に会えると放火。捕らえられ火あぶりで処刑されたのだとか。
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県道49号から左に入ると市役所の前にある小さな御堂は江戸中期ごろに建てられた「浅古家地蔵堂」(左)で草加宿南限の邪神を防ぐ境神であった。
旧街道沿いに「格子戸の古民家」(右)が何軒か見られるが、目につくのは大きなマンションやマンション工事などばかりで残念ながら宿場町としての面影はあまり感じられない。
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なにか手掛かりはないかと向かった先が「草加市歴史民族資料館」であるが、本陣跡が小学校に、明治天皇行在所跡がマンションになったという程度しか分からなかった。
(歴史民俗資料館は草加小学校の裏なのでちょっと分かりにくい) |

八百屋の前に金具で補強され「千住町へ・・・ 越ヶ谷町へ・・・」と刻まれた「道標」(左)があるが、この道標は明治期に建てられたもの。ここは元問屋場があった場所。
道標の少し先の「おせん茶屋公園」(右)は草加煎餅の元祖「おせん婆さん」にちなんで名付けられた公園名だが、おせん茶屋があった場所ではなさそう。
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直線だった旧街道が右に曲がると県道と交差するがその左側に建てられているのは「草加せんべい発祥の地碑」(左)。草加松原で茶店を出していた「おせん婆さん」が売り出したのが「おせんべい」と呼ばれるようになったのだとか。でも、これはあくまでも俗説。その前から塩煎餅が作られていたそうです。
県道を横切り「6丁目橋」(右)を渡ると向こうに望楼が見えるが、ここは綾瀬川畔に作られた札場河岸公園。
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河岸公園を右方向に少し歩いた所にあったのは「甚左右衛門堰」(左)。明治27年(1894)から昭和58年(1983)まで使われたという煉瓦造りの水門だがアーチ形がなかなか美しい。
望楼まで戻ると傍に「芭蕉さんが立っている」(右)。
その日 ようよう早加(草加)という宿にたどり着きにけり
舟を降りた千住方向を眺めているようだ。
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正岡子規と高浜虚子が連れだって草加を訪れているが「高浜虚子の句碑」(左)が建てられていた。
順礼や 草加あたりを 帰る雁 虚子
この先から1kmほどは「日本の道百選」(右)に選ばれた日光街道草加松原の松並木。 よく手入れされた遊歩道が素晴らしい。
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石碑の先で優雅にカーブを描く歩道橋は「矢立橋」(左)。
行春や 鳥啼魚の 目は泪 是を矢立の初として、行道なをすゝまず
にちなんで付けられた矢立橋。
「矢立橋の上から前方を眺めると」(右)、ゆったりとした松並木の遊歩道と綾瀬川が彼方まで。 なんと贅沢な歩道橋、そして贅沢な遊歩道であろうか。
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矢立橋の次の歩道橋は奥の細道冒頭の
月日は百代の過客にして行きかう年もまた旅人なり
から採られた「百代橋」(左)。
百代橋を下ると建てられていたのは
今年元禄二とせにや 奥羽長途の行脚 只かりそめに思ひたちて・・・・・
と刻まれた「芭蕉文学碑」(右)。
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入り口の河岸公園に高浜虚子の句碑が建てられていたが、虚子に反旗を翻した「水原秋桜子の句碑」(左)も建てられている。
草紅葉 草加煎餅を 干しにけり 秋桜子
草加松原の遊歩道も終わり高速道路下のトンネルを抜けると大きな壁画が3枚。
草加宿にたどり着いた「芭蕉と曽良の旅姿」(右)の絵タイル。右写真はその内の1枚。
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