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江の島道

街道地図

江戸時代、庶民の間で大流行したのが 大山詣り。 
江戸城赤坂見付前を出発した旅人は大山街道
を通って大山に登り 阿夫利神社に参詣。
このまま真っ直ぐ帰るのはもったいない。 しかも大山は男の神様、女性の神様にも
お参りしないと片参りとなってしまう。ということで向かったのが江の島の弁天様。
大山を下った旅人は大山街道田村道か大山街道柏尾道を通って東海道に入り藤沢宿から
江の島道を通って江の島神社に向かい弁天様にお参り。
今回の街道歩きは藤沢宿の遊行寺から江の島道を通って江の島岩屋までの約6km。
杉山検校が寄進したという江の島弁財天道標が各所に残されており 「江の島参りの旅人が
歩いた道」、そんな雰囲気を楽しみながら歩くことができる。

令和元年10月28日

江の島道の旅 出発点は藤沢宿の「遊行寺」(左)。正式な寺名は清浄光寺だが遊行上人の寺ということから一般に遊行寺と呼ばれている。大山阿夫利神社を参詣した旅人が藤沢宿に到着したらまず遊行寺にお参りをして江の島に向かう。

遊行寺は見所が大変多い。ちょっと時間をかけて一回りしてから参道のいろは坂を下って出発だ。

いろは坂の途中、真徳寺の赤門を入った左手に最初の「江の島弁財天道標」(右)がある。かなり風化が進んでおり かろうじて「ゑ」という文字が読み取れるだけだが、元々は遊行寺橋(旧大鋸橋)の袂にあったもの。
 

いろは坂を下った先の赤い欄干の橋は「遊行寺橋」(左)。江戸時代には大鋸橋(だいぎりばし)と呼ばれ大名行列も渡った橋。歌川広重の「東海道五十三次之内 藤澤 遊行寺」に描かれているのは遊行寺とこの橋、そして江の島神社一の鳥居。

その先の国道467号を左へ曲がると ここにも「江の島弁財天道標」(右)がある。 弁財天道標は江の島弁財天の熱心な信者であった鍼術師の杉山検校が江の島道沿いに建てたもの。その多くが弁財天を表す梵字の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「二世安楽」と刻まれている。

江の島道はこの先で国道から分かれ右側の旧道に入って行くが、旧道沿いの何ヵ所にも弁財天道標があるのでまとめてご紹介。その他に白旗神社境内、市役所内にもある。
遊行ロータリーの植込みの
中にある。
砥上公園のガードレール際 片瀬小学校前 密蔵寺先の三叉路際。
左側の石塔
片瀬市民センター先の
西行戻り松前。
湘南江の島駅手前の三叉路際。 すばな通りの中ほど。

国道から分かれた江の島道はJR藤沢駅を地下道で横断し、途中で境川を渡り、泉蔵寺、密蔵寺前を通って すばな通り から江の島に入るのだが
車の通りが少ない静かな旧道と弁財天道標が江戸時代の旅を想像させてくれる。

藤沢駅の地下道を抜けて10分ほど歩くと弁財天道標がある砥上公園の先に小さな「石上神社」(左)が。かつては砥上明神と呼ばれていたそうで、蛇行していた境川の渡し場の守護神として村人から崇められていた。しかし度重なる水難に遭い現在地の石上通りに遷座したという。小さが手入れが行き届いた神社だ。

江の島道はほどなく道なりに左へ曲り境川を渡って山裾の道を南下。橋を渡って10分ほど歩くと橋名板に「うまくらばし」と記された小さな欄干があるが ここは「馬喰橋跡」(右)。傍らの説明板に「源頼朝が片瀬川(境川の下流)に馬の鞍を架けて橋の替わりにしたから馬鞍橋、または馬がこの橋に差し掛かるといななき突然死んでしまうことから馬殺橋と呼ばれた」と記されている。この辺りは江の島参詣の旅人の他 海上交通の拠点としても賑わっていた。

片瀬川沿いに数分、「岩谷不動入口」の石柱がある丁字路を左に曲がり緩い上り坂を進むと山裾に鳥居があるがその奥は「岩谷不動」(左)。弘仁5年(814)、弘法大師がここに岩窟を掘り修行をしたと云われている。
 コメント:藤沢市観光公式ホームページには「岩屋不動」と記されている。

片瀬小学校の校庭際にある三体の石仏は「庚申塔 道祖神 庚申塔」(右)。右側の船形向背を負った庚申塔は元禄6年(1693)のもの。中央の石塔は一部欠損しているがこの辺では珍しい双体道祖神。建立年は不明。左の笠付き庚申塔は文化2年(1805)の造立。 この先の片瀬小学校正門前には弁財天道標。

住宅地の中の細い道を4~5分、左手の鳥居を潜り山の中腹まで階段を上ると鎮座しているのは「諏訪神社上社」(左)。由緒に「我が国の諏訪神社は五千社を数えるも上・下両社を備えしは信濃諏訪本社と我諏訪社のみと言うも可なり。養老7年(723)、信濃国諏訪大社の御分霊を勧請」とある。千年以上の歴史をもつ誇り高き古社。

当神社は信濃国諏訪大社が他郷へ御分霊した最古のものとされているが、この地がかつては大きな沼湖であり それが諏訪湖を取り巻く諏訪の地によく似ていたことからこの地が選ばれたのだった。
「下社」(右)は上社から5~6分の地に鎮座。

諏訪神社上社から数分先の「密蔵寺」(左)は鎌倉時代末期に有弁僧正によって開山。本尊は薬師如来だが、よく知られているのは本堂に祀られている愛染明王。これにちなみ境内の中央に「愛染かつら」と表示された かつらの木 があるが、これは往年の名女優木暮実千代お手植えだという 。

密蔵寺の30メートルほど先、三叉路の石塔は弁財天道標。
その先4~5分、左手の長~い参道の奥は推古天皇3年(595)の創建と伝わる古刹 「本蓮寺」(右)。元暦元年(1184)に源頼朝が源立寿寺として再建。朝廷から送られた父義朝の遺骨を受け取った頼朝は当寺で供養したと伝えられている。

本蓮寺から江の島道に戻ったら次の丁字路を右に曲がって寄り道を。数分先は「一遍上人地蔵堂跡」(左)。鎌倉時代の僧一遍が全国を遊行中に鎌倉へ入ろうとしたが執権北条時宗によって拒まれる。そのため片瀬の地蔵堂で念仏を行ったが この時「紫雲たちて花ふりける」が一遍は「花のことは花に問え、紫雲のことは紫雲に問え、一遍しらず」と言ったとか。

再び江の島道に戻るとすぐ先の左側に弁財天道標があるが、その後ろの松は「西行戻り松」(右)。西行法師が江の島道の松のところで鎌を持った童に「どこへ行く」と聞くと童は「夏枯れて冬ほき草を刈りに行く」と詠ったが西行はその意味がわからずもと来た道を引き返したいう。「夏枯れて冬ほき草」とは麦のこと。漂泊の歌人と言われた西行だがすぐには意味がわからず村の童に一本取られてしまった ということでした。

その先の十字路の石塔は「寛文庚申供養塔」(左)。この庚申塔は青面金剛ではなく「南無妙法蓮華経 帝釈天」と刻まれ三猿が彫られている。説明文によると寛文年間(1661~73)の造立で天保13年(1842)に修理が行なわれている。
次の三叉路際にも弁財天道標がある。江の島道はこの三叉路を右に曲がって行くのだが左へ曲がって寄り道を。

向かった先は「龍口寺」(右)。日蓮上人入滅後の延元2年(1337)に直弟子の日法聖人が「龍ノ口法難の霊跡」として一堂を建立したのが始まり。龍ノ口法難とは、日蓮が立正安国論を奏上したことで幕府に捕えられ龍ノ口の洞窟に幽閉。 翌日に処刑の予定であったが幕閣から異議が出され処刑中止、佐渡への流罪となった。その洞窟が御霊窟として本堂横の崖下にあり見ることが出来る。

三叉路まで戻り「すばな通り」に入ると江の島が近い。その途中にも弁財天道標が1基。

国道134号の地下道を潜り弁天橋を渡るといよいよ「江の島」(左)だ。江の島神社三の鳥居(青銅鳥居)を潜ると土産店が並ぶ仲見世通り、その先の岩本楼は鎌倉時代から続く宿坊であった旧岩本院。

岩本楼先の朱の鳥居を潜り交番横を上った先の崖下墓地に弁財天道標を寄進した「杉山検校の墓」(右)がある。幼い時に失明した杉山和一(検校)は山瀬検校らのはり医に学び管鍼の術を創案。五代将軍綱吉の信任を受け江戸本所に邸宅を賜ったという。この墓地は一周忌の命日に次の総検校、三島安一が造立したもの。

朱の鳥居まで戻って楼門を潜り、さらに階段を上ると江の島神社「辺津宮」左)に到着。社伝によると欽明天皇13年(552)に欽明天皇の勅命で島の洞窟(岩屋)に神様を祀ったのが江の島神社の始まりとされている。辺津宮は建永元年(1206)、時の将軍・源實朝が創建。高低差の大きい江の島の一番下に位置していることから「下之宮」とも呼ばれる。

隣の「奉安殿」(右)に祀られているのは日本三大弁財天の一つ、裸弁財天。残念ながら写真撮影禁止なのでこちらを

辺津宮から数分歩くと朱鮮やかな「中津宮」(左)。文徳天皇仁壽3年(853)に慈覚大師が創建。現在の社殿は元禄2年(1689)に造営されたものだが平成8年(1996)に改修が行われ元禄時代の鮮やかな朱がよみがえった。

さらに階段を何回も何回も上り下りして約10分、到着した場所は「奥津宮」(右)。昔は本宮または御旅所と呼ばれ岩屋本宮に海水が入る夏の期間だけ御本尊がここに遷座されたと云われている。社殿は壮麗を極めていたそうだが天保12年(1841)の火災で焼失。翌年再建されたのが現在の社殿。

江の島神社発祥の地「岩屋」まであと少し。奥津宮を出て階段を下ったら「芭蕉句碑」(左)があるではないか。
     疑ふ那 潮の花も 浦乃花  はせを
三重県二見ヶ浦での寛政9年(1797)の作だが、この場所でもこの景色が見られそうだ。

児子ヶ淵の脇を通り「岩場を下った先が岩屋」(右)なのだが、ムム・・先日の台風19号の被害で全面閉鎖  残念。

この他にも「一遍上人の島井戸」 「群猿奉斎庚申塔」 「龍宮」 「児子ヶ淵」 など見落とせない場所がある。
岩屋を見ることができず残念だったが江の島神社参詣の旅人が歩いた道は見所が多く楽しい街道歩きであった。

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