第15宿安中宿
あんなかじゅく |
中山道以前の東山道時代から 野尻の郷 として旅人の往来があった宿場だが 永禄2年(1559)に
安中忠政がこの地に城を築き 地名を安中と改めている。
慶長8年(1603)、中山道が整備され安中宿が成立したが 大きく発展することなく幕末となった。 |
街道地図 |
| 平成20年11月12日 呑んべーな夫婦道祖神を発見! |
 安中宿への出発は「鷹之巣橋」(左)から。 橋を渡ると(写真は振り向いて撮影)すぐに中宿という交差点があるがここを右に曲がると旧中山道に入ることができる。
旧中山道に入る前に交差点左側の諏訪神社に寄り道を。
ごく普通の神社であるが境内に「明治天皇腰掛石」(右)なるものがある。天皇陛下が腰掛けただけで石碑が出来るとは いやはや明治天皇とは偉大な存在だ。 |
中山道を歩かれている岐阜の三好様から中宿一里塚跡の情報と写真を頂きましたので追加記載をいたします。
碓氷川を越えてきた旧中山道に入って数分、中宿公民館にある蔵の脇に「中宿一里塚跡碑」(左)が建てられている。
文字が読みずらいが、刻まれた文字は正面に「中宿一里塚跡」、右側面に「京へ 百七里」。
この写真は三好様から提供していただきました。 |
 一里塚跡碑から数分、道路際に建てられた「庚申塔」(左)は道標を兼ねており側面に刻まれた道筋は「従是 一宮 大日 街道」。 一宮とはかつての上野一宮神社(現貫前神社)のこと。 取り残されてしまったような街道、そんな雰囲気であるが車の往来が少ないので当時を偲びながらのんびりと。
旧中山道はこの先も真っ直ぐに5〜6分歩くと再び碓氷川の堤に。その手前左側の2基の石塔は「蠶養神と道祖神」(右)。上州は昔から養蚕の盛んな地域。お蚕様を祀っても不思議ではないが、それにしても「蠶」とは難しい漢字を使ったものだ。 |
  道祖神の先は碓氷川の堤防。その手前を左に曲がった所の石塔は「寒念仏供養塔」(左)。
旧中山道はここでも碓氷川を渡ったのだが、今はちょっと上流の「久芳橋」(左)を渡っていく。橋を渡り歩道橋に上がって下を見ると「国道を横切る旧中山道」(右)がよく分かる。 |
 旧中山道に入って7〜8分、交差点の先を右に入ると奥が熊野神社。この神社は安中城を築いた安中忠政が熊野三社を勧請したもの。ところで甲州街道上野原宿で「樹齢850年のケヤキ」を見て凄いなーと感心したが、ここには、なんと「樹齢千年のケヤキ」(右)が。まさに神の木。
街道に戻り数分、郵便局前の植え込みの中に立っている石塔は「本陣跡碑」(右)。 |
 さらに4〜5分歩いて伝馬町交差点を右に曲がり坂道を上った突き当たりは「旧碓氷郡役所」(左)。碓氷郡役所が開設されたのは明治11年(1878)であるが現在の建物は明治43年(1910)の再建。郡役所廃止後は様々な使われ方をしたが今は修復されて一般公開されている。
郡役所隣りの 「安中教会」(右) は群馬県で最初に建てられた教会(設立1878)。写真の建物は新島襄没後30年記念に建てられた新島襄記念堂で大正8年(1919)竣工の石造り。 |
 街道に戻らずもう少し先へ歩くと安中小学校の前に出るが、この辺りは安中忠政が築いた安中城があった場所。安中小学校の門前に 「安中城址碑」(左) が建てられている。江戸時代に本格的な修築工事が行われた安中城であったが明治維新の廃城令でことごとく取り壊され遺構を見ることはできない。
小学校の先辺りを大名小路と呼んでいるが、かつては安中藩士が住む家が並んでいた場所。今も2棟の古民家が。次の交差点手前の茅葺建物は「郡奉行役宅」(右)。江戸時代末に藩主板倉勝明の側近だった山田三郎が住んでいたのだとか。古図面を元に復元修理を行い一般公開。 |
 内部を見学させてもらったが、なかなかどうして、三畳玄関と八畳2間に十畳の座敷、それに十二畳ほどの御勝手、 さらに湯殿まで備えた高級住宅である。「玄関脇の小窓」(左)から垣間見えた紅葉が妙に秋を感じさせてくれたのだった。
交差点向こうの長い建物は江戸時代末期の「武家長屋」(右)。現存していた建物を復元修理した4軒長屋。座敷の前に縁側があり、その先に庭が広がっている。冬は雪見酒が良さそう。 |
 交差点を右に曲がり突き当たりを左に曲がると駐車場脇に石碑群があるが、その中の一つは「安政遠足(とおあし)之碑」(左下)。安政2年(1855)、藩主の板倉勝明が藩士の鍛錬を目的に碓氷峠まで七里七町を走らせたのだとか。この安政遠足が記録を競った最初と云われ 隣りの石碑に日本マラソン発祥の地安中と刻まれている。江戸時代のマラソン、どんな恰好で走ったのだろうか。興味津々の思いで伝馬町交差点まで戻り再び街道の旅へ。
街道沿いで土蔵や蔵造りの民家をよく見かけるが伝馬町交差点から7〜8分、坂の途中にあった 「サカウエ薬局」(右) は写真に撮りたくなるような重厚な蔵造り。 |
 街道をさらに先へ歩くと上野尻郵便局の前に石碑が1本。「安中大木戸跡」(左)と刻まれている。
道路際の「新島襄先生旧宅入口」の看板と石碑に誘われて左に右にと曲がると「新島襄旧宅」(右)にたどりつく。同志社大学を設立したことで有名な新島襄であるが、生まれは江戸・神田の安中藩江戸屋敷。終焉の地は東海道・大磯宿(終焉の地碑がある)。 「ここは両親の家で、わずか三週間滞在しただけです」というのが管理人の説明であった。 |
岐阜の三好様から「一里山一里塚跡」(左)の情報をいただきましたので追記いたします。
場所は新島襄旧宅から旧中山道に戻り国道18号を横断して200メートルほど先です。
中山道浪漫の旅 東編に「江戸より三十里 の標柱が民家の入り口に建っていたが
今は無くなる」と記載され写真が掲載されているがその場所がこの辺り。石碑や標柱などの標識はありません。
グーグルマッで「一里山一里塚 群馬県」と入れて検索すると表示されます。
この写真は三好様から提供して頂きました。 |
  一里塚跡から数分歩くと おっ、刀を差した連中がマラソンを。給水塔の壁面に「安政遠足之図」(左)がありました。勇ましいねーっ。
この辺りから見事な杉並木。ここは昭和8年(1933)に国指定天然記念物となった「安中杉並木」(右)。しばらく歩くと昭和9年に建てられた「杉並木碑」(右)が見られる。碑の側面に文部省と刻まれているのが懐かしい。 |
 この先も杉並木を歩き夫婦道祖神や原市村戸長役場跡などを見ながらてくてく、やがて杉並木も途切れごく普通の街道に。まもくな「明治天皇原市小休所碑」(左)が見えるが、ここは五十貝家茶屋本陣があった場所。また原市高札場があった場所でもあり表示板も建てられている。
2〜3分歩き、右側階段を上ると今は無住の真光寺。本堂左側の「梵鐘」(右)は第二次世界大戦で供出を免れた貴重な鐘。撞き始めが行われたのは天明2年(1781)。 |
 真光寺の梵鐘を見た後、ちょっと寄り道を。真光寺横の交差点を左に曲がり国道18号を横断して100mほど先。
ホームセンター駐車場の外れに木造2階建ての「旧碓氷社」(左・右)の建物がある。明治38年(1905)に建てられたということだが、その後ほとんど改造されておらず当時のままの姿が残っている。窓ガラスに写る景色がなんとなく歪んでいるのが懐かしいが
このガラスはフランス製だとか。
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 道に戻り十数分、出梁造りの建物に 「八本木旧立場茶屋」(左)の看板が掲げられている。ここは山田卯兵衛立場茶屋があった場所。山田家は代々 この地に住まわれている。
立場茶屋向かいの階段を上がると広場の奥に見える赤い屋根は「八本木地蔵堂」(右)。大永5年(1525)、松井田城主・安中忠清が勧請した地蔵だが大変に霊験あらたか。参勤交代の諸大名は下馬して参詣したそうだ。云い伝えでは騎乗のまま通ると仏罰で落馬してしまうのだとか。
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| 地蔵堂を出た後は秋の中山道を道祖神を探しながらのんびりと。街道の前方には歌枕の地となった妙義山(波己曽山)の奇怪な姿も望めるようになった。 |
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 のんびり歩くこと30分、街道からちょっと奥に入った自性寺の山門前で見た「夫婦道祖神」(右)にはビックリ。お神酒だけでは足りないとみえて、男神は酒徳利を、女神はお猪口をかかえているではないか。なんとも呑んべーな神様だこと。
岐阜の三好様から「郷原一里塚跡付近」(右)の写真を提供してもらいましたので追記いたします。場所は自性寺入り口から10分ほど歩いた原市小学校分校跡の先です。関連する祠が西隣の民家に残されているとのこと。
旧中山道はこの先20分ほど歩くと国道18号に合流して松井田宿へと入っていく。 |
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