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街道松 中山道道中記   街道松

第39宿須原宿
すはらじゅく
当初は木曽川の川岸にあった須原宿であるが正徳5年(1715)の洪水で宿のほとんどが
流されてしまったため享保2年
(1717)に現在地へ移転。 豊富な湧水を溜める 水舟が
あちらこちらで見られることから「水舟
(みずぶね)の里」 とも呼ばれている。
街道地図

平成21年6月25日  幸田露伴に島崎藤村そして正岡子規 明治の文豪・俳人揃い踏みの須原宿です。

松葉菊の壁左に入る細い道が旧中山道寝覚の床を出て旧中山道に戻り小一時間、石畳の道があり、小野の滝があり、荻原の一里塚跡碑もあったが、荻原の集落から国道19号に戻ると「松葉菊の壁」(左)が。 見事な咲きっぷりに思わず1枚。

この先の荻原沢の橋を渡って1〜2分、「左に入る細い道」(右)を上り、JR中央西線のガードをくぐると、その先は山中へと入っていく上り坂。

旧中山道は民家の横を通るむむっ 蛇? 車も人も通らない静かな道を上って行くと数軒の家があり、さらにその先に1軒の民家がある。「旧中山道は民家の横を通り」(左) 土蔵の脇を通って草道を下っていく。

気持ちの良い草道を下っていくと 「むむっ 蛇?」(右) ではなく単なる棒でした。この先のくるみ坂を下り 中央西線のガードをくぐると再び国道19号に合流。

立町立場跡吊り橋国道に合流した旧中山道はすぐに左の細い道に入るが数分で国道に戻る。今度は国道を横断して「立町立場跡」(左)の集落へと坂を下っていく。 静かな静かな集落であるが かつては旅人で賑わっていたのだろう。

集落の中ほどを過ぎた右側で 「吊り橋」(右) を発見。木曽川に架けられた木造の吊り橋はなんとも風情がある。真ん中あたりまで歩いてみたが、ゆ〜らゆらと揺れるところがいいね〜。

常夜灯江戸時代のままの草道旧中山道はこの先で再び国道に合流しJR倉本駅の手前で左に曲がっていくのだが現在は消滅。このまま国道を歩き倉本駅の先で左に曲がりJRのガード下を抜けていくと旧中山道に復帰。倉本の集落には古民家が何軒か残っており 旧中山道 そんな雰囲気を感じることができる鄙びた街道である。

その先の栃の木坂と呼ばれる坂を下ると「常夜灯」(左)が1基、その後ろの石塔群には享保12年(1727)と刻まれた庚申塔も。

常夜灯の先に「江戸時代のままの草道」(右)が残されている。江戸時代だったら多くの旅人が行き交うので草道とはならないだろうが道幅は当時のままなのだとか。

国道19号倉本一里塚跡碑草道を通り大沢川沿いを下ってくると「国道19号」(左)に合流して左へ曲がっていく。行く手はどこまでも山、見渡す限り山、この山を抜け出すのはいつ頃になるのだろうか。

人が全く通らない国道の歩道をてくてくと歩いていくと右側に駐車場があり、その奥に「一里塚の跡碑」(右)がひっそりと立っている。気にしていないと通り過ぎてしまいそうだがここは倉本一里塚があった場所。石碑には江戸より七十四里と刻まれている。

旧中山道は倉本一里塚の先で国道から分かれ右側の池の尻集落へと入っていくが、ここも立場があった場所。車道は行き止まりとなるが
そのまま草道を進むと国道に戻り、その先は延々と国道19号を歩くことに。

左へ上がる道は旧中山道ではない須原一里塚跡碑砂利道の旧中山道国道をてくてくと1時間も歩いただろうか。「左へ上がる道」(左)があり須原宿の案内看板も立てられている。その後、この場所に「須原一里塚跡碑」(左)が建てられました。この写真は練馬の榎本様から提供して頂きました。




ついつい左へ上がって行きたくなるが、ここは真っ直ぐ進み100mほど歩いた先、左側の「砂利道が旧中山道」(右)。砂利道の坂を上がり左へ曲がると、さきほど間違えそうになった車道に合流。


大和屋須原宿一里塚跡表示車道に合流したら右へ曲っていくのだが左へ曲がってちょっと寄り道を。左方向へ50mほど歩くと「須原宿一里塚跡」(左)と記された表示板が建てられている。本来は先ほどの須原宿の案内看板あたりに一里塚があったようだが、何故ここに表示が? コメント:その後、この場所に家が建てられ表示は無くなりました。

一里塚跡表示の隣に旧中山道を歩く旅人に人気の「大和屋」(右)という店がある。人気の秘密は「すばらしいぞえ須原の桜、つけてにえ湯の中で咲く」と唄われた「桜の花漬」を売っているから。桜の花漬ならどこでも売っているが大和屋さんの桜の花漬は江戸時代からの須原名物、しかも自家製。

幸田露伴文学碑須原本陣跡大和屋の対面がJR須原駅。駅前広場に建てられている石碑は「幸田露伴文学碑」(左)。文学碑によると、明治22年(1889)、木曽路を旅した幸田露伴は須原宿に泊まり その縁で出世作『風流仏』を著したのだとか。文中には桜の花漬のことも記されている。

街道に戻り坂を下っていくと静かな町並みの左手に旅籠行灯が置かれた家があるが、ここは「須原本陣跡」(右)。

正岡子規歌碑と水舟旧脇本陣の西尾酒造本陣跡の先に見えるのは「正岡子規歌碑と水舟」(左)。
  寝ぬ夜半を いかにあかさん山里は 月いつるほとの 空たにもなし  子規
明治24年(1891)、正岡子規は須原宿で一泊。明治20年代には中央線は木曽まで開通していない。幸田露伴も正岡子規も歩いてここまで。昔の人は凄い!

水舟の対面が「旧脇本陣の西尾酒造」(右)。西尾家は中山道制定と同時に問屋、庄屋も兼ねた脇本陣であった。造り酒屋は江戸時代初期の創業だとか。

清水医院跡旧旅籠・柏屋脇本陣跡の先、黒板塀の場所は島崎藤村の「ある女の生涯」の舞台となった「清水医院跡」(左)。藤村の姉 園も入院したことがあるのだとか。残念ながら建物は明治村に移築されてしまった。

宿場街終わり近くの風情ある建物は「旧旅籠・柏屋」(右)。障子がガラス戸に変わっているが建物は旅籠時代のまま。2階軒下の三都講の看板が江戸時代を彷彿とさせる。

定勝寺本堂鍵屋の坂旧中山道はその先で枡形道を右に曲がっていくのだが 寄り道を。真っ直ぐ行った左が木曽の三大名刹定勝寺。永享2年(1430)に創建され 現在地に移されたのは慶長3年(1598)。そのとき建てられた「本堂」(左)は国の重要文化財。

枡形道まで戻り左に下る道(宿場方向から来た場合は右に曲がる)「鍵屋の坂」(右)。ここは真ん中に用水があり、両側が道という、江戸時代そのままの形状が残っている。旧中山道は鍵屋の坂を下って左に曲がり、その先の水神様前を通り、突き当たったら右へ。

駒ケ岳方面の山並み岩出観音堂宿場を出た街道はJRの踏み切りを渡り 山の中腹を上っていくのだが、振り返ると「駒ケ岳方面の山並み」(左)がきれいに見える。足元には木曽川と国道19号、JR中央西線が見え隠れ。

道はやがて下り坂となり橋場集落へと入っていく。集落の中ほどを左に曲がり、さらに左に入ると 木曽の清水寺 とも呼ばれている「岩出観音堂」(右)の優美な姿が。懸崖造りの御堂は一度火災に遭い文化10年(1813)に再建されたもの。堂内には多数の絵馬が掲げられている。

山間(やまあい)の集落マリア地蔵旧中山道に戻って伊那川橋を渡り しばらく歩いたら大島橋の手前を左に入っていく。その先は山と山に挟まれた、まさに「山間(やまあい)の集落」(左)。

山間の道は写真右側の山裾をぐるっと回り込むように続いている。やがて丁字路となるので右に曲がると間宿平沢の集落へと入っていく。平沢集落の天長院「マリア地蔵」(右)が山門脇に鎮座。かなり風化が進んでおり分かりずらいが子どもを抱いた紐が十字になっているのでマリア様。

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