第41宿三留野宿
みどのじゅく |
木曽氏の館があり「御殿(みどの)」と呼ばれたことが「三留野」の由来と云われている。
江戸時代に4度の大火に見舞われているが、明治14年(1881)の大火では宿場の
ほとんどを焼失してしまったため当時の面影は少ない。また、鉄道開通とともに町の
中心が三留野駅周辺(現南木曽駅)に移ってしまったことから、今は静かな静かな町並み。 |
街道地図 |
| 平成21年9月14日 思わぬところで円空仏を拝観することができました。 |
岐阜の三好様から金知屋一里塚の写真ををいただきましたので追記いたします。
十二兼一里塚から4kmほど歩いた金知屋集落のJR中央西線向こう側に「金知屋一里塚跡碑」(左)が松の木の根本にあるとのことです。
場所がちょっと判りにくいですが田口自動車板金の看板が見えたら、その先の赤い屋根の家の反対側土手道を上り、線路を越えていきます。
ここには 「危険ですので線路横断はしないでください」の看板がありますので自己責任で渡ってください。
4~5分歩いた先の松の木の根本で、生い茂った木を搔き分けないと見つからないそうです。
|
 国道19号を木曽川沿いに歩き、蛇抜け地蔵を見たりして約40分。金知屋集落を過ぎると左に入る細い道(県道264号)があるが、この道が「旧中山道」(左)で まもなく三留野宿。JR中央線のガード下を通り坂道を上ると三留野宿入り口の枡形道へと入っていく。
三留野宿は明治14年(1881)の大火で町並みのほとんどを焼失してしまった。それでも枡形道を抜けると「出梁造りの家」(右)が並び ひなびた街道風景を味わうことができる。 |
 宿場の中ほどまで歩くと「脇本陣跡」(左)の説明板が建てられている。代々宮川家が務めてきた脇本陣であるが その建物は残念ながら明治の大火で焼失。
脇本陣跡の斜め先が「本陣跡」(右)。こちらは鮎沢家が務めており文久元年(1861)11月に皇女和宮一行が宿泊。また明治の大火前年に明治天皇も一泊されており明治天皇行在所記念碑が建てられている。この辺りが宿場の中心地で、さぞかし賑わっていたのだろうが今は静かな静かな町並み。 |
 「旧中山道」(左)はその先のガードレールの間から狭い階段を下っていく。道路整備のために追いやられてしまった中山道だが それでも残してくれただけでもありがたい。
階段を下った先に「常夜灯」(右)が一基。享和3年(1803)に建立された秋葉常夜灯で正面に刻まれているのは「秋葉永代 常夜灯」と。 |
  街道は常夜灯の先で先ほど分かれた道に合流するが、ちょっと戻って「等覚寺」(左)に寄り道を。山門を入った左側の円空堂に円空仏が収められており、若干のお布施(賽銭)で自由に拝観することができる。
堂の扉を開けるとガラス張りの中に収められていたのは「天神像」(右)及び「弁財天坐像と童子像」(右)。等覚寺には韋駄天像もあるのだが これは庫裏に保存されており見ることはできない。
特別展示会などでしか見られない円空の仏像を こんなにも自由に見せてくれるとは、等覚寺のご住職に感謝である。
|
旧中山道に戻り橋を渡ると南木曽小学校に行く上り階段があるが その階段を数段上がって右に曲がる道が「旧中山道」。
街道はその先の坂道を上り和合集落を抜けていくが、回り道して「蛇抜橋」を渡り「貯木場」を右下に眺めながら緩い坂道をさらに上っていく。 |
 坂を上りきった辺りに「園原先生碑」(左)なるものが建てられている。三留野村出身の園原旧富は京都で神学を学んだ国学者であるが木曽谷を隈なく歩き木曽古道記や木曽名物記などを記している。
この先で街道を外れて寄り道を。坂を下ってJR中央線を越え、国道19号も越えて木曽川に架かる三留野大橋まで来ると、上流に長大吊橋の「桃介橋」(右)が見える。大同電力(現中部電力)の社長であった福沢桃介が読書発電所建設のために大正11年(1922)に架けたもので今は南木曾町の有形文化財。 |
 街道に戻りしばらく林の中の道を歩いて神戸集落に入ると切り倒された松の根元に「ふりそで乃松碑」(左)が。
「木曽義仲が弓を射るのに邪魔になった松を、巴御前が袖を振って枝をなぎ払った」という伝説が残る松であったが松くい虫の被害に遭い平成21年(2009)6月に伐採となってしまった。残念。
伐採した松は「水舟」(右)となって木曽義仲が創建したという観音堂の境内に置かれている。その前に「義仲こしかけ石」(右)が鎮座しているが、この石は木曽義仲が兜を置いて腰掛けた石なのだとか。 |
 観音堂から4~5分、石畳の坂を上るとその先に小山が道の両側に。小山の上には一里塚碑もある。ここは江戸から八十里(説明板には78里と記されている)の「上久保一里塚」(左)。
一里塚の先の坂を下っていくと「良寛歌碑」(右)がありました。
木曽路にて この暮れの もの悲しきに若草の 妻呼びたくて 小牝鹿鳴くも
良寛が木曽路を通った折の二首の内の一首です。 |
 良寛歌碑の先、道端に「くぼはら茶屋碑」(左)がひっそりと立っている。道路を挟んだ反対側にかなり大きな一軒家があるが、かつての茶屋だろうか。茶屋碑の後ろに屋根に石を置いた「水車小屋」(右)が見えるが、なんともいえない風情がある。
街道はこの先から 木曽路を歩いている そんな雰囲気を感じさせてくれる桧林の上り坂。
|
 坂を上りきった所に「中山道蛇石道標」(左)が建てられており、刻まれている文字は「左下り道 志ん道(新道) 中山道蛇石 右つまご宿」。
この先の沢で道標に記された「蛇石(へんびいし)」(右)が見られる。蛇のような形ではない。察するところ、蛇抜けで転がってきた大石ではないかと。中世の中山道はこの沢沿いに上っていったのだが、元禄16年(1703)に現在の道に付け替えが行われている。
道はこの先のしろやま茶屋跡(崩れ落ちそうな廃屋)の前を通り、三方に分かれた真ん中の道を下るといよいよ妻籠宿。 |
前の宿場野尻宿へ 次の宿場妻籠宿へ 表紙へ戻る
|