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街道松 中山道の一里塚  
東京・埼玉・群馬・長野の一里塚
街道松

一里塚の左右位置及び道路の右折、左折は日本橋から京都に向かって歩いた場合で表記してある。 中山道の一里塚・下へ
東京・埼玉の一里塚

日本橋 日本国道路元標 本郷追分一里塚跡附近 本郷追分一里塚跡の説明板
日本橋
五街道の基点
東京都中央区日本橋
日本国道路元標
日本橋の中心に埋め込まれている。
【1】本郷追分一里塚跡附近
東京都文京区向丘一丁目1-17
【1】本郷追分一里塚跡の説明板
日本橋は慶長8年(1603)に初めて架橋され、
慶長9年(1604)に五街道の起点と定められた。
一里塚はこの橋から **里目 ということになる。

街道地図
昭和47年(1972)に設置された道路元標は
(元)総理大臣佐藤栄作の揮毫によるもの。
明治44年に設置された東京市道路元標が
日本橋北詰の西側に展示されている。
東大赤門の先日光御成道と中山道の追分に
塚があった。塚の痕跡は無いが、高崎屋酒店の
壁面に説明板が設置されている。

街道地図
説明板によると、18世紀中ごろまで榎が植えら
れていたが道路の拡張によって昔の面影をとど
めるものはなくなった。高崎屋酒店は江戸時代
から続く酒屋である、などが記されている。

平尾一里塚跡付近 志村一里塚 左塚現存 志村一里塚 右塚現存 志村一里塚の説明板
【2】平尾一里塚跡付近
東京都板橋区板橋一丁目54-3
【3】志村一里塚 左塚現存
東京都板橋区志村一丁目12-16
【3】志村一里塚 右塚現存
東京都板橋区小豆沢二丁目16-10
【3】志村一里塚の説明板
そのほかに石碑あり
JR埼京線踏切の約80m手前です。痕跡は無く
石碑や説明板等も無い。
写真は岐阜の三好様から提供して頂きました。

街道地図
国道17号志村坂上の少し手前の国道両側に塚が現存。この一里塚は
街道から少し離れた場所に築かれたことから国道の拡幅工事でも撤去
されることがなかった。
街道地図
説明板によると、大正9年(1922)に国の史跡に
指定。昭和8年(1933)から行われた新中山道
の工事の際、周囲に土砂の流出を防ぐ石積みが
なされた。

一里塚のイラスト 辻一里塚跡 石碑 浦和一里塚跡付近 イラスト一里塚
【4】戸田一里塚 【5】辻一里塚跡 石碑
埼玉県さいたま市南区辻七丁目4
【6】浦和一里塚跡付近
埼玉県さいたま市浦和区常盤三丁目4
【7】大宮一里塚跡
荒川の渡船場から500mほど北に一里塚が
あったようだが分間延絵図に記載が無いこと
から築造場所の特定ができない。

街道地図
蕨宿を出て20分ほど歩いた先、外環自動車道の
手前、公園の一角に「一里塚跡の碑」が建てら
れている。

街道地図
JR線を跨ぐ浦和橋の手前辺りに一里塚が
あった。塚の痕跡は見当たらず、説明板、
石碑なども無い。

街道地図
当初の中山道は武蔵一之宮氷川神社の参道で
あったが後年、参道の外に付け替えが行われ
ている。距離的には参道の途中が考えられるが
特定ができない。
街道地図

加茂宮一里塚跡付近 上尾一里塚跡付近 桶川一里塚跡付近 桶川一里塚跡の説明書き
【8】加茂宮一里塚跡付近
埼玉県さいたま市北区宮原町三丁目
【9】上尾一里塚跡付近
埼玉県上尾市愛宕一丁目28
【10】桶川一里塚跡付近
埼玉県桶川市北一丁目
(10)桶川一里塚跡の説明書き
上越新幹線ガードの約300m先辺りです。
写真は岐阜の三好様から提供して頂きました。



街道地図
上尾宿入り口の愛宕神社から数分の
丁字路先辺りです。石碑や説明板などの
目標物はありません。
写真は岐阜の三好様から提供して頂きました。
街道地図
桶川宿の中程、歩道橋の辺りに一里塚があった。
歩道橋の柱に説明書きが取り付けられている。
写真は練馬の榎本様から提供して頂きました。

街道地図
説明書きによると、塚木は榎ではなく杉が
植えられ、根本には石の妙見菩薩が祀られて
いた。取り壊されたのは明治9年(1876)。
写真は練馬の榎本様から提供して頂きました。

馬室原一里塚 左塚現存 馬室原一里塚の説明板 箕田一里塚跡付近 一里塚イラスト
【11】馬室原一里塚 左塚現存 石碑・説明板
埼玉県鴻巣市小松四丁目1-13
【11】馬室原一里塚の説明板
そのほかに石碑あり
【12】箕田一里塚付近
埼玉県鴻巣市箕田4132-2
【13】不明
R北本駅の先5~6分の線路左側。畑の奥に
左塚のみ現存、右塚は鉄道建設の際に撤去。
頂上に石碑と祠が建てられている。


街道地図
説明板によると、この一里塚は慶長17年(1612)に築かれた。明治16年(1883)に高崎線施設の
際に東側の塚(右塚)が取り壊された。
鴻巣宿を出てJR高崎線の踏切を渡った
100m程先の右側辺りです。
石碑、説明板の類はありません。

街道地図

前砂一里塚跡 前砂一里塚跡の説明板 久下一里塚跡 久下一里塚跡の説明板
【14】前砂一里塚跡
埼玉県鴻巣市前砂71
【14】前砂一里塚跡の説明板 【15】久下一里塚跡
埼玉県熊谷市久下二丁目
【15】久下一里塚跡の説明板
箕田一里塚跡から1時間、前砂村碑が見えたら
その数分先に「前砂の一里塚跡」と題された
説明板が建てられている。

街道地図
説明板によると、現在の前砂681番地に西塚、
71番地に東塚があった。いつ頃撤去されたか
は不明。
写真は岐阜の三好様から提供して頂きました。
熊谷堤の右下、マンション前の稲荷神社辺りに
一里塚が築かれていた。稲荷神社境内に
説明板が設置されている。

街道地図
説明板は一里塚の一般的内容の説明であるが
川柳が一首。
 ”くたびれた奴が見つける一里塚”

八丁一里塚跡 八丁一里塚跡の説明板 新島一里塚 右塚現存 新島一里塚の説明板
【16】八丁一里塚跡
埼玉県熊谷市曙町四丁目8
【16】八丁一里塚跡の説明板 【17】新島一里塚 右塚現存
埼玉県熊谷市新島
【17】新島一里塚の説明板
久下一里塚から1時間、住宅街の中の小さな
神社の前に広場があるがこの辺りが一里塚跡。
この地区をかつては八丁村と呼んでいた。

街道地図
説明板には、久下一里塚から一里あり、と記され
渓斎英泉の「八丁堤の景」が描かれている。
国道17号から左に入ってすぐの右側。玉石で
囲われており一里塚らしくない。塚木は欅で
樹齢300年。かつては大木が聳えていた。
写真は岐阜の三好様から提供して頂きました。

街道地図
説明板によると、宝暦6年(1756)の道中絵図
には「榎二本づつきづく」とあるが現存する大木
は不思議なことにけやきです、と記されている。

東方一里塚跡 深谷一里塚跡付近 傍示堂一里塚跡付近
【18】東方一里塚跡 表示板
埼玉県深谷市東方
【19)深谷一里塚跡付近
埼玉県深谷市深谷町4丁目50
【20】岡部一里塚跡付近
埼玉県深谷市岡332
【21】傍示堂一里塚跡付近
埼玉県本庄市傍示堂576
街道際の広場奥に欅の大木がありますが塚は
ありません。掲示板に「一里塚と花畑」と記され
ているが一里塚の説明は無い。
写真は練馬の榎本様から提供して頂きました
街道地図
深谷本陣跡(飯島印刷)の50mほど手前の
交差点辺りに一里塚があった。痕跡は無く、
石碑や説明板の類もありません。


街道地図
国道17号の普済寺入り口から十数分、右側の
旧中山道に入ってさらに500mほど歩いた先。島護産泰神社が100mほど先に鎮座する。
説明板、石碑等はありません。
街道地図
新泉橋を渡ってすぐの生コン工場辺りに一里塚が
築かれていた。現在は痕跡無く石碑、説明板等も
無い。
写真は岐阜の三好様から提供して頂きました。

街道地図

万年寺一里塚跡附近 勝場一里塚跡の石碑
【22】万年寺一里塚跡附近
埼玉県本庄市万年寺一丁目14
【23】勝場一里塚跡 石碑
埼玉県児玉郡上里町勅使河原
本庄宿の金鑚神社を出て30分弱、万年寺の
150mほど手前、万年寺公会堂がある交差点の辺りに一里塚があった。石碑、説明板等は無い。
街道地図
万年寺一里塚からちょうど1時間、国道17号を
横断した先の右側、地蔵堂脇
に「一里塚跡」と
刻まれた石碑が建てられている。
街道地図

群馬の一里塚

イラスト一里塚 倉賀野一里塚跡 倉賀野一里塚跡の説明板 一里塚のイラスト
【24】中島一里塚
群馬県藤岡市
【25】倉賀野一里塚跡
群馬県高崎市倉賀野町816-1
【25】倉賀野一里塚跡の説明板
【26】不明一里塚
鳥川の氾濫で流失。延絵図には記載されて
いないが中山道が鳥川に最接近した辺りに
築造されていたと思われるが詳しい場所は
不明。

街道地図
倉賀野神社入り口から5分ほど先の上町西
交差点際の植え込み辺りに一里塚が築か
れていた。
この写真はストリートビューからの転載です

街道地図
説明板には26番目の一里塚と記されているが、
25番目が正しい。塚の頂上に榎が植えられて
いたことから「一里山」と呼ばれていた、などの
記載がある。
写真は岐阜の三好様から提供して頂きました。

イラスト一里塚 藤塚一里塚 左塚現存 藤塚一里塚の石碑 中宿一里塚跡の石碑
【27】高崎一里塚 【28】藤塚一里塚 左塚現存
群馬県高崎市上豊岡町
【28】藤塚一里塚の石碑 (29)中宿一里塚跡 石碑
安中市群馬県中宿一丁目8-9
宿場内を通っていた中山道が慶長年間に一里塚
のあった道筋から西側に付け替えられため塚が
荒廃。一里塚稲荷の小祠があったという記録が
あるが今はその祠も無い。
街道地図
高崎宿を出てかれこれ1時間、国道18号と
碓氷川の間に一里塚の左側が現存、右塚は
国道の拡幅に伴い撤去された。傍らには
一里塚碑と説明碑も設置されている。
街道地図
群馬県唯一の現存一里塚で、塚木のムクノキは
樹齢400年。説明碑には縷々記載されているが
読み取ることができない。
碓氷川を渡り旧中山道に入って数分、中宿公民館
横の蔵前に石碑が建てられている。
写真は岐阜の三好様から提供して頂きました。

街道地図

一里山一里塚跡付近 郷原一里塚跡付近 一里塚のイラスト 新堀一里塚 左塚現存
【30】一里山一里塚跡付近
群馬県安中市原市355
【31】郷原一里塚跡付近
群馬県安中市郷原
【32】不明一里塚 【33】新堀一里塚 左塚現存
群馬県安中市松井田町新堀
新島襄旧宅から旧中山道に戻り国道18号を
横断して200mほど先です。石碑や説明板等は
ありません。
写真は岐阜の三好様から提供して頂きました。

街道地図
安中杉並木、八本木立場跡を通り過ぎ、自性寺
入り口から10分ほど先の原市小学校分校跡の
入り口付近です。石碑や説明板等はありません。
写真は岐阜の三好様から提供して頂きました。
街道地図
松井田警察署の手前を左に入ると説明板あり。
民家の裏庭に左塚のみが現存している。説明板先の路地を入ると見られる。

街道地図

横川一里塚跡付近 刎石一里塚跡推定地 刎石一里塚跡推定地の標柱 東山道時代の一里塚跡説明板
【34】横川一里塚付近
群馬県安中市松井田町714-1
【35)刎石一里塚跡推定地
群馬県安中市松井田町坂本
【35)刎石一里塚跡推定地の標柱 【**】東山道時代の一里塚跡説明板
群馬県安中市 松井田町坂本
この一里塚は延絵図には描かれていないこと
から早い時期に解体されたようだ。場所は
第十五中仙道踏切から400mほど先。写真は
日本橋方向に向かって撮影されている。
写真は岐阜の三好様から提供して頂きました。
街道地図
碓氷峠道の 風穴と刎石茶屋跡との中間 あたりに
あるこんもりした小山に標柱が建てられている。
この場所が一里塚跡であるということを岐阜の
三好様が安見絵図から推定いたしました。
写真も三好様からの提供です
街道地図
「刎石一里塚跡(推定地)」と記された標柱は
岐阜の三好様が自作し設置したものです。
写真も三好様から提供して頂きました。
碓氷峠へ登る途中の「坐頭ころがし」の手前に
説明板が建てられている。ただし この一里塚は
東山道時代のもので中山道分間延絵図には
記載が無い。


街道地図

山中一里塚跡推定地 山中一里塚跡推定地の標柱
【36】山中一里塚跡推定地
群馬県安中市松井田町坂本
【36】山中一里塚跡推定地の標柱
碓氷峠道途中の 一つ家跡 に山中一里塚跡の
標柱が建てられている。この場所は岐阜の
三好様が「ちゃんと歩ける中山道」等の文献に
基ずいて推定した場所に標柱を建てました。
写真も三好様からの提供です。
街道地図
「山中一里塚跡(推定地)」と記された標柱は
岐阜の三好様が自作し設置。写真も三好様から
提供して頂きました。

長野の一里塚
イラスト一里塚 宮之前一里塚跡 追分一里塚 追分一里塚
【37】軽井沢一里塚
長野県北佐久郡軽井沢町
【38】宮之前一里塚跡 石碑
長野県北佐久郡軽井沢町長倉
【39】追分一里塚 左塚現存
長野県北佐久郡軽井沢町 追分
【39】追分一里塚 右塚現存
軽井沢幼稚園の敷地に一里塚の痕跡が残って
いたとの資料があるが詳しいことは分からない。


街道地図
中軽井沢駅南口から東へ数分歩いた墓地の
一角に「宮之前一里塚」と刻まれた石碑が建て
られている。

街道地図
追分宿の手前、国道18号を挟んで両側に一里塚が現存。道路設計者がうまい具合に一里塚の間に国道を通してくれたようだ。
説明板が設置されているが、内容は一里塚の一般的な説明のみ。
街道地図

追分一里塚 説明板 御代田一里塚 御代田一里塚 右塚現存 御代田一里塚 説明板
【39】追分一里塚の説明板 【40】御代田一里塚 左塚現存
長野県北佐久郡御代田町御代田
【40】御代田一里塚 右塚現存 【40】御代田一里塚説明板
説明板の内容は一里塚の一般的な内容だが
最後の方に、追分一里塚はよくその原型を
保って当時をしのぶことができる貴重なもの、
と記されている
追分宿を出てかれこれ1時間、信濃鉄道御代田駅手前にある
「御代田の一里塚入り口」と記された標柱に従って右に入ると、
左右現存という貴重な一里塚が見られる。
街道地図
説明板によると、西塚は直径13m、高さ5m、
東塚は直径13m、高さ4.5m。寛永12年
(1635)に中山道の改修が行われ街道から外れ
畑中に残った事から保存状態が大変良い。

一里塚イラスト 鵜縄沢端一里塚 鵜縄沢端一里塚の説明板 イラスト一里塚
【41】不明
【42】鵜縄沢端一里塚 左塚現
長野県佐久市岩村田
【42】鵜縄沢端一里塚の説明板 【43】平塚一里塚
長野県佐久市平塚
小田井宿を出てかれこれ30分、横根入り口バス
停の手前、丁字路際の雑木林前に「鵜縄沢端一
里塚」の説明板が建てられている。
写真はGogle・ストリートビューからの転載です。
街道地図
中山道開通当初に築造された塚であるが、
街道が付け替えられた事によって道筋から
はずれてしまった。説明板後ろの東塚は原型
を残しているが、藪に囲われ見ることが難しい。
写真は岐阜の三好様から提供して頂きました。
岩村田宿から塩名田宿に向かう途中に荘山稲荷
神社があるが、この南側を「平塚字一里山」と呼んでおりこの辺りに一里塚があったと思われる。

街道地図

御馬寄一里塚跡 標柱 瓜生坂一里塚 左塚現存 瓜生坂一里塚 右塚現存 瓜生坂一里塚の石碑瓜生坂一里塚の説明板
【44】御馬寄一里塚跡 標柱
長野県佐久市御馬寄
【45】瓜生坂一里塚 左塚現存
長野県佐久市布施
【45】瓜生坂一里塚 右塚現存 45】瓜生坂一里塚の石碑と説明板
塩名田宿を出て千曲川に架かる中津橋を渡り
御馬寄坂を上りきると自動車学校の対面に
御馬寄一里塚跡があり、標柱が建てられている。

街道地図
望月宿手前の瓜生峠に至る瓜生坂の途中に塚がある。左右両方とも現存の塚だが
説明板が無ければ見落とすだろう。
街道地図
説明板によると左右両塚が現存だが右側(北塚)
は道路で半分削られている。石碑に刻まれている
文字は「中山道一里塚跡」。

茂田井一里塚跡 説明板 笠取峠一里塚跡 石碑・説明板 四泊一里塚跡 四泊一里塚 説明板
(46】茂田井一里塚跡 説明板
長野県北佐久郡立科町茂田井846
【47】笠取峠一里塚跡 石碑・説明板
長野県北佐久郡立科町芦田
 【48】四泊一里塚
長野県小県郡長和町長久保
 【48】四泊一里塚の説明板
茂田井宿先の急坂を上ると説明板がある。
これによると、三代将軍家光が「一里塚には
余の木 を植えよ」と言ったのを榎と聞き
間違えたからと記されている。家康説とは
異なるのが面白い。
街道地図
国道142号笠取峠の手前右側の土手に
一里塚の一般的なことが記された説明板と
石碑が建てられている。 塚の形はほとんど
留めていないが塚木の赤松は今も健在。

街道地図
長久保宿を出て20分ほど歩くと国道142号
から右下へ分かれる旧道があるが、ここに
一里塚が築かれていた。説明板が設置され
ている。

街道地図
説明板に、「エノミの木のある場所」として地元の
人々に親しまれた榎の大木があったが昭和35年
(1960)の道路改修時に伐採されてしまった、と
ある。


芹沢一里塚跡の石碑 鍛冶足一里塚跡 石碑 唐沢一里塚 唐沢一里塚
【49】芹沢一里塚跡 石碑
長野県小県郡長和町和田上組
【50】鍛冶足一里塚跡 石碑
長野県小県郡長和町和田鍛冶足
【51】唐沢一里塚 左塚現存
長野県小県郡長和町和田唐沢
【51】唐沢一里塚 右塚現存
長久保宿を出て和田宿へ向かう途中の旧国道沿いに設置されている。一里塚跡碑から30分ほど
歩くと「是より和田宿」と刻まれた和田宿碑が
あり、和田宿に入っていく。
街道地図
和田宿からしばらく歩き国道142号を横断
すると鍛冶足一里塚跡に大きな石碑と
諏訪街道道標が建てられている。

街道地図
鍛冶足から国道をかれこれ1時間歩いた後、国道から分かれ山中の古中山道に
入ると左右両塚とも現存の一里塚が見られる。
築造当時の原型をほぼとどめて
いるのが素晴らしい。
街道地図

和田峠 説明板 広原一里塚 広原一里塚 説明板 和田峠
【51】唐沢一里塚説明板
そのほかに石碑・標柱あり
【52】広原一里塚 左塚現存
長野県小県郡長和町和田広原
【52】広原一里塚の説明板 和田峠
長野県小県郡長和町和田和田峠
説明板によると、この一里塚は中山道の一部
路線変更により山中に取り残されたもので、
天保2年(1832)の絵図面ですでに路線から
外れている。
和田峠登山口の男女倉から1時間弱の山中に
現存の一里塚がある。片側だけだが、築造当時
の形をよく残している。但し塚木は無い。


街道地図
説明板によると、このあたりを広原といった。
その名のとおり昔は笹と萱の生い茂る原で
あった。冬の降雪時は一面の雪の原と化し
道も埋もれる時、この塚は旅人の道しるべと
なったであろう。
男女倉口から登り始めて約2時間で和田峠頂上
到着。頂上には中山道碑や説明板が設置されて
いるがすぐに下り道となる。


街道地図

和田峠 説明板 西餅屋一里塚跡の石碑 樋橋一里塚跡の石碑と説明板 下諏訪一里塚跡の石碑
和田峠の説明板 【53】西餅屋一里塚 石碑
長野県諏訪郡下諏訪町木の下
【54】樋橋一里塚跡 石碑・説明板
長野県諏訪郡下諏訪町町屋敷2260
【55】下諏訪一里塚跡 石碑
長野県諏訪郡下諏訪町517
古峠と題された説明板には、諸大名の参勤交代
や一般旅人の通行、物資を運搬する牛馬の往き
来で賑わいを見せた峠である。明治9年(18764)
東餅屋から西餅屋へ下る紅葉橋新道が開通し
この峠はほとんど通る人が無くなった、とある。
和田峠を下り西餅屋茶屋跡の先から国道142号を横断。ガードレールの隙間から階段を下り200m程歩くと石碑が建てられている。


街道地図
和田峠を下って国道142号に合流して約1時間、
(途中で一部旧道を通る)国道から右側の旧道を下り六協リサイクルセンター脇を通った奥に
石碑と説明板が建てられている。
写真は練馬の榎本様から提供して頂きました。
街道地図
諏訪大社春宮から秋宮へ行く途中の右側、
道路際に石碑が建てられている。
*下之原一里塚と記載された資料もある。


街道地図

東堀一里塚跡石碑 東山一里塚 東山一里塚の標柱と説明板 柿沢一里塚跡 石碑
【56】東堀一里塚跡 石碑
長野県岡谷市長池小萩一丁目13 
【57】東山一里塚 左塚現存
長野県塩尻市大字旧塩尻701-4
【57】東山一里塚の標柱と説明板 【58】柿沢一里塚跡 石碑
長野県塩尻市柿沢6-3
下諏訪宿を出てかれこれ50分、国道20号を
横断した先の道路際に石碑が建てられている。
写真は岐阜の三好様から提供して頂きました。

街道地図
塩尻峠を10分ほど下った先の左側に左塚が
現存。標柱と説明板が建てられている。


街道地図
説明板によると、中山道が牛首峠経由から
塩尻峠経由に変更となった元和2年(1616)頃に
この一里塚が造られたと推定されている。
塩尻宿東入り口の仲町交差点際に一里塚跡碑
が建てられている。交差点を渡った所にも石碑
があるがこれは塩尻宿碑。
写真は練馬の榎本様か提供して頂きました。
街道地図

平出一里塚 左塚 平出一里塚 右塚 平出一里塚の説明板 牧野一里塚跡 石碑・説明板
【59】平出一里塚 左塚現存
長野県塩尻市宗賀
【59】平出一里塚 右塚現存
【59】平出一里塚の説明板 【60】牧野一里塚跡 石碑
長野県塩尻市宗賀牧野
塩尻宿を出て1時間弱、昭和電工の長~い塀の先に現存の一里塚が見えてくる。
街道から見える一里塚は左塚で、右塚は対面の民家裏に現存。塚木もしっかり
残っており貴重な一里塚である。

街道地図
説明板には次のような内容が記されている。
一里塚の一般的な説明の後に、江戸時代の
塩尻には三つの街道に沿って八カ所の一里塚
があったが両塚を残すのは平出のみ。この付近
には茶屋が二軒あった、など
洗馬宿を出て中央西線のガード下を通った先の左側。説明板は一里塚の一般的な内容のみ。

写真は岐阜の三好様から提供して頂きました。
街道地図

牧野一里塚跡の説明板 日出塩一里塚跡 日出塩一里塚跡説明板 若神子一里塚
【60】牧野一里塚跡の説明板  【61】日出塩一里塚跡 石碑
長野県塩尻市宗賀5778-1
【61】日出塩一里塚跡の説明板 【62】若神子一里塚 右塚現存 
長野県塩尻市贄川567
説明板には、慶長19年(1614)洗馬宿の間宿に
併せて塚が築かれた。当時の面影はないが
中山道名称統一300年の年に碑を建てた、と
記されている。
名称は中仙道から中山道に変更された。
本山宿と贄川宿の間にあった立場に築造された
一里塚は江戸から61里なので六十一里塚とも
呼ばれていた。
写真は岐阜の三好から提供して頂きました

街道地図
本山宿が開宿された慶長19年(1614)に築造
されたが今は痕跡が無い。説明板に新型
コロナウイルス感染拡大のことが記されている
とはなんとユニークなことか。
写真は岐阜の三好から提供して頂きました
国道19号を南下し桜沢トンネルの手前から旧道
に入り再び国道に合流して数分、国道の右側、
擁壁の上に若神子一里塚の右塚が現存。
標柱と説明板が建てられている。
街道地図

若神子一里塚の説明板 押込一里塚跡 石碑 橋戸一里塚 橋戸一里塚の説明板

62】若神子一里塚の説明板
そのほかに標柱あり
63】押込一里塚跡 石碑・説明板
塩尻市大字贄川2189-5
【64】橋戸一里塚 左塚現存
長野県塩尻市木曽平沢
【64】橋戸一里塚の説明板
そのほかに標柱あり
明治43年(3333)に中央線の鉄度建設時に左塚
が壊され、右塚も国道の拡幅工事で切り崩されて
小さくなってしまったのが残念。塚木として榎が
植えられていた。
贄川宿の先、桃岡集落を通り国道19号に合流
する手前に一里塚跡碑と標柱、説明板が建てら
れている。
写真は練馬の榎本様から提供して頂きました。

街道地図
木曽平沢の先から奈良井川遊歩道を歩くと
奈良井川の向こうに見える
。人専用の橋を
渡って近くまで行くことができる。

街道地図
「当初の中山道は奈良井川左岸にあり 。
そこに一里塚が設けらたが、いずれか
の時期に中山道が右岸に移され一里塚
は使われなくなった」とある。

鳥居峠一里塚跡 石碑 薮原一里塚跡 石碑 薮原一里塚跡の説明板 吉田一里塚跡 石碑・説明板
【65】鳥居峠一里塚跡 石碑。説明板
長野県塩尻市奈良井
【66】薮原一里塚跡 石碑・説明板
長野県木曽郡木祖村藪原196-21
【66】薮原一里塚跡の説明板  【67】吉田一里塚跡 石碑・説明板
長野県木曽郡木祖村菅322-1
鳥居峠へ向かう途中の「中の茶屋」から10分
ほど上ったところに石碑が建てられている。
写真は練馬の榎本様から提供して頂きました。

街道地図
藪原宿の先に蒸気機関車D51が展示されているがその前に石碑と説明板が建てられている。


街道地図
説明板の記載内容は木祖村に藪原と吉田の
2カ所に一里塚があったこと、及び一里塚の
一般的な内容。
藪原宿を出てかれこれ1時間、国道19号の
山吹トンネル手前200mほどの場所に
一里塚跡碑と説明板が建てられている。
写真は練馬の榎本様から提供して頂きました。
街道地図

宮ノ越一里塚跡 石碑・説明板 尻一里塚跡 石碑・説明板 塩渕一里塚跡 石碑 沓掛一里塚
【68】宮ノ越一里塚跡 石碑・説明板
長野県木曽郡木曽町日義
【69】出尻一里塚跡 石碑・説明板
長野県木曽郡木曽町新開
【70】塩渕一里塚跡 石碑・標柱
長野県木曽郡木曽町福島2661
【71】沓掛一里塚 右塚現存
長野県木曽郡上松町上松
宮ノ越宿を出て10分ほど先の丁字路左側に
石碑と説明板が建てられている。塚の痕跡は
無い。
写真は練馬の榎本様から提供して頂きました。
街道地図
宮ノ越宿を出て中山道中間地点表示、手習天神
などを通って国道19号(現中山道)を横断した
所に石碑と説明板が建てられている。
写真は練馬の榎本様から提供して頂きました。

街道地図
JR木曽福島駅前から10分ほど先の集会所前に
石碑と標柱が建てられている。
石碑に刻まれた
文字が「江戸より70里 京へ67里」、京都は
まだまだ遠い。
街道地図
福島宿を出た後、旧中央線のトンネル内を通り、
中央線に沿って約1時間、線路際に観音堂が
乗った小高い山が見えるが、ここが現存の
沓掛一里塚。塚横の旧道は消滅している。
街道地図

沓掛一里塚石碑・説明板 上松一里塚跡 石碑・説明板 上松一里塚跡の説明板 荻原一里塚跡 石碑
【71】沓掛一里塚石碑・説明板 【72】上松一里塚跡 石碑・説明板
長野県木曽郡上上松町本通り
二丁目
【72】上松一里塚跡の説明板
【73】荻原一里塚跡 石碑・説明板
長野県木曽郡上松町荻原
塚手前の道を下ると国道に合流する左側に
一里塚碑と説明板が据えられている。説明板に
よると明治43年(1910)の鉄道施設工事の折に
山側の塚が取り壊された。この一里塚の位置は
京へ六十六里、江戸へ七十一里。
松宿本陣跡の100mほど先、桝形道の角に
石碑と説明板がある。


街道地図
説明板によると桝形道を曲がり30mほど先の
中町に一里塚があった。この説明板には「本町
一里塚跡」と記されている。
上松宿を出て寝覚めの床や小野の滝を見学
したりしてかれこれ1時間、国道19号から左に
入った荻原集落の入り口に塚跡があり、石碑と
説明板が立つ。
街道地図

荻原一里塚跡の説明板 倉本一里塚跡 石碑・説明板 倉本一里塚跡の説明板 須原一里塚跡
【73】荻原一里塚跡の説明板 【74】倉本一里塚跡 石碑・説明板
長野県木曽郡上松町荻原倉本
【74】倉本一里塚跡の説明板 【75】須原一里塚跡
長野県木曽郡大桑村須原565
荻原集落の北入り口にあった塚には榎が植え
られていた。集落の南入り口には高札場が
あったと記されている。
木曽川沿いの旧中山道を1時間ほど歩き
国道19号に出たら5分ほど歩くと一里塚跡碑が
藪の奥にひっそりと立っている。気にしながら
歩かないと見落としそう。
街道地図
説明板によると、塚があった位置は石碑より
南へ二十メートルほどの地点、左右に一里塚が
あったが。今でも塚があった場所の民家の
屋号を「一里塚」と呼んでいる。
JR須原駅前の道路をはさんだ対面に「須原宿
一里塚跡」と記された看板が建てられていたが、
現在は家が建ち、一里塚の痕跡は無くなった。
写真は家が建つ前です。
街道地図

須原一里塚跡石碑 大桑一里塚 左塚 大桑一里塚石碑 下在郷一里塚跡 石碑
75】須原一里塚跡石碑 【76】大桑一里塚 左塚現存
長野県木曽郡大桑村長野
【76】大桑一里塚石碑 【77】下在郷一里塚跡 石碑
長野県木曽郡大桑村野尻
国道19号からJR須原駅向かう坂道の途中に
「須原宿 一里塚跡」と刻まれた石碑が建てら
れている。
写真は練馬の榎本様から提供して頂きました。
この一里塚は古中山道沿いに築造されたもので
旧中山道からは離れている。JR大桑駅横の国道19号から脇道に入り坂を下った先にある。
弓矢一里塚と記載する資料もある。
街道地図
一里塚碑に刻まれた説明文に、
この地は鎌倉時代より木曽の街道として栄えて
いた。桃山時代に主要街道とされ、一里ごとに
土を盛り塚とし道標とした、とある。
野尻宿の脇本陣跡から15分ほど歩いた先の
下在郷公民館入口階段横に石碑が設置されて
いる。説明板はありません。
写真は練馬の榎本様から提供して頂きました。

街道地図

十二兼一里塚跡 石碑 金知屋一里塚跡碑 上久保一里塚 左塚 上久保一里塚 右塚
【78】十二兼一里塚跡 石碑
長野県木曽郡南木曽町読書
79】金知屋一里塚跡 石碑
長野県木曽郡南木曽町金知屋
80】上久保一里塚 左塚現存 説明板
長野県南木曽町吾妻 151-1
【80】上久保一里塚 右塚現存
JR中央線12兼駅舎の中を通って国道19号に
出たら1~2分、 十二兼南交差点の傍に石碑が
建てられている。説明板はありません。

街道地図
三留野宿の手前、金知屋集落の中央西線踏切を
横断した先の松の根本に石碑がある。
写真は岐阜の三好様から提供して頂きました。

街道地図
三留野宿の先、振袖の松碑から4~5分の山中に左右現存の一里塚がある。
左塚には説明板が設置され、右塚の頂上には自然石に「一里塚」と刻まれた
石碑が建てられている。ここまで来れば妻籠宿が近い。
街道地図

上久保一里塚の説明板 大妻籠一里塚跡 石碑
【80】上久保一里塚の説明板
その他に石碑あり
【81】大妻籠一里塚跡 石碑
長野県木曽郡南木曽町大妻籠
説明板には一里塚の一般的なことが記載さ
れているが、後半に「町内には十二兼、金知屋、
上久保、下り谷 の四か所に一里塚があった」と
記されている。下り松一里塚とは81番目の
大妻籠一里塚のこと
妻籠宿を出て大妻籠を通り県道17号に出て右へ
まがると馬籠峠へ向かう石畳道があるが、その
反対側の川向こうに石碑が見える。
写真は練馬の榎本様から提供して頂きました。
街道地図
コメント:馬込峠へ向かう石畳道の入り口に
「下り谷の一里塚」と記された説明板が設置
されました。この辺りは土砂崩れや水害で
幾度となく道筋が変わったようで、下り谷の
一里塚は初期の街道にあった塚です。
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