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鮮魚街道は名のごとく鮮魚を輸送した街道でいつの頃からか呼ばれた街道名が鮮魚(なま)街道。
江戸の人口が増えてくると江戸前と言われた東京湾の魚だけでは足りなくなり、銚子沖や九十九里周辺で水揚げされた魚貝類を高瀬舟に乗せ利根川を関宿まで北上
ここから江戸川に入って新川、小名木川を通り江戸日本橋に送りこまれるようになった。しかしこのルートは距離が長いこと 冬季の渇水期は高瀬舟が関宿付近を通れなかった事などから木下河岸から白井宿・鎌ヶ谷宿を経て本行徳河岸まで馬で運ぶルートが開拓された。だが、宿次ぎであったため
このルートも様々な問題が発生。
一方、新田開発などで布佐・松戸間を結ぶルートが開通すると こちらは通し馬が可能であったことから次第に新ルートでの輸送が主流となり、いつしか鮮魚(なま)街道と呼ばれるようになった。 |
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