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街道松
東海道五十三次道中記 街道松

(1)品川宿  鈴ケ森刑場跡は重かったなー。         街道地図

日本橋を出発すると最初の宿場が品川宿。だが旅人側から見ると 東海道から江戸に入る前に一泊して旅の垢を落とし、
さっぱり
して江戸入りする そんな宿場でもあった。また海に近く景勝の地であったことから旅人のみならず遊山客でも
賑わっていた。
平成17年10月29日

八ツ山橋旧東海道品川宿入り口品川宿への入り口は「八ツ山橋」(左)。ところがここが問題。橋の親柱に 旧東海道 のプレートがはめ込まれている。ほっとしてそのまま橋を渡ってしまうと普通の街へ入ってしまうので注意を。

ここは横断歩道を渡り向こう側を歩けば 品川宿説明パネル 「旧東海道品川宿入り口」(右)の看板もあり迷うことはない。 

旧品川宿の町並み問答河岸跡碑「なんとなくひっそりした町並みだなー」(左)。江戸時代の方が賑わっていたかも。資料によると町並みの道路幅は江戸時代から変わっていないそうだ。今でも通用する道路が造られていたとは驚き。

最初に目に入ったのが「問答河岸跡碑」(右)。三代将軍家光が東海寺の沢庵和尚に
「海近くして東海寺
(遠海)とはこれいかに」
沢庵和尚すかさず
「大軍を率いていても将軍(小軍)と言うが如し」と言ったとか。


鯨塚品川宿碑海岸方向へ下って利田神社へ行くと「鯨塚」(左)なるものがある。寛政10年(1798)、品川沖に迷い込んだ鯨が漁師達によって捕えられた時の供養碑で当時は大変な評判、将軍家斉も上覧されたとか。

街道へ戻るとちょっと先の品海公園に「品川宿碑」(右)が建てられているが、この石碑に「日本橋より二里」と刻まれている。ここの一里塚は江戸中期には消滅していたか、当初から築造されなかったとも云われているが定かではない。近くに説明板が幾つかあるが一里塚に関する説明は無い。


東海道五十三次道中記品川宿の松品海公園から数分、街道際に「本陣跡碑」(左)がある。品川宿には本陣が2軒あったが、江戸中期以降は1軒だけとなった。石碑脇を入った奥が本陣跡。明治元年(1868)に明治天皇東幸の際の行在所となったことから聖蹟公園として一般開放されている。

しばらく歩くと右側に樹齢80年の黒松「品川宿の松」(右)が身を傾けて旅人を眺めている。この松は東海道・浜松宿の有賀氏より贈られたもの。

150mほど先の松は東海道・三島宿がある静岡県・三島市からの寄贈。その先には四十九番目の土山宿がある滋賀県土山町から寄贈された街道松が旅人に話しかけている。


品川寺(ほんせんじ)のお地蔵様品川宿さらに歩くと品川寺(ほんせんじ)の大きな「お地蔵様」(左)がやさしく迎えてくれた。この地蔵尊は江戸六地蔵の一つで、石造りではなく高さ2.74mの青銅造り。ここから職場の同僚であった梅ちゃんことU氏と弥次喜多道中だ。

「品川寺」(右)は平安時代前期に開創されたという古刹。品川という地名の由来になった寺で品川区最古の寺。境内に入ると際立つのが樹齢600年という大銀杏。鐘楼に下がる梵鐘は四代将軍徳川家綱の寄進で明暦3年(1657)の銘がる。


力石涙橋品川寺からすぐの海雲寺「力石」(左)が有ったが、こんな重い石を持ち上げたとは 江戸時代の男集は凄い。この石からパワーをもらっていくか。

街道に出て10分ほど歩くと「涙橋(右)に到着。正式名称は浜川橋で徳川家康が江戸入府後の慶長年間に架けられた橋であるが、 この先の刑場に送られる罪人と涙ながらの別れを行う場所ということでいつの頃からか涙橋と言われるようになったとか。

鈴ケ森刑場跡磐井の井戸その刑場とは国道15号に合流する場所にある「鈴ケ森刑場跡」(左)。八百屋お七、白木屋お駒、天一坊など、よく知る人物もここで処刑されている。題目碑などに混じって「磔台」や「火炎台」の礎石が残っており、ちょっとばかり気持ちが重くなるなー。

気分一新、歩道橋を渡り右側を行くと京浜急行大森海岸駅先の道路際に「磐井の井戸」(右)があり その前が磐井神社。 転がすと鈴の音がするという「鈴石」、鳥の形をした「鳥石」があるそうだが、残念、見つからず。

コメント:再度訪れたところ有りました「鈴石と鳥石」が、といっても現物が有ったわけではなく説明板が有りました。現在は屋内に保存されているということで見ることは出来ません。 前回訪れたときは本殿が工事中のため説明板が塀で隠されていたのでした。


旧東海道石柱大森一里塚跡付近国道15号を左側に移り平和島入口の交差点先から旧東海道に入る。旧道に入るとすぐに「旧東海道石柱」(左)が建てられておりノンビリ歩くことが出来る。

700mほど歩いた先の内川橋を渡ると橋の親柱に「羽田通り((するがや通り)」と題された説明碑が嵌め込まれている。それによると駿河屋という旅宿があったので「するがや通り」という名が残された、とある。

さらに1~2分、国道15号へ抜ける丁字路の辺りが「大森一里塚跡付近」(右)。塚の痕跡は無い。かつてはマンション前に説明板があったが今はそれも無くなっているので詳しい位置は分からない。




梅屋敷公園六郷一里塚跡付近 旧東海道から国道15号に合流して横断歩道を渡り梅屋敷駅を過ぎると「梅屋敷公園」(右)に到着。ここは江戸時代に和中散(旅の常備薬)の売薬所敷地に梅の木を集めて作られた庭園。明治天皇がこの庭園をことのほか好まれ9度も行幸したそうだ。

この先は国道15号を30数分、左側の歩道を歩いているとそのまま国道と別れて旧東海道に入る。

すぐに六郷神社の脇参道鳥居が現れるがこの先辺りが「六郷一里塚跡付近」(右)。塚の痕跡は無く石碑や説明板もないが、神社の由緒書きの隣に「日本橋から四里の一里塚と高札場が描かれている」と記されており、添付されている江戸名所図会を見ると鳥居から5~6軒先に一里塚が描かれている。

六郷神社神門前の神橋(太鼓橋)「六郷神社」(左)は村の鎮守 程度かと思っていたが源義家・頼義父子が京都の石清水八幡宮の分霊を勧請したのが当社の創建とされ、六郷の総鎮守という由緒ある神社。6月に行われる例大祭には六郷14町会の神輿40基が神社に集まり御霊入れが行われるという。

「神門前の神橋(太鼓橋)」(左)は梶原景時が建久2年(1191)に寄進されたと伝わっている。

境内左手の狛犬は貞享2年(1685)の造立で大田区内最古の狛犬。ちょっとメタボだがなんとも愛嬌のある顔がかわいらしい。

北野天神旧六郷橋 橋門ついに多摩川に到着。国道の下を通って上流側に移動した先の「北野天神」(左)は別名 止め天神の愛称で親しまれている。江戸時代、八代将軍吉宗が乗った馬が暴走。ところが天神様の前でピタリと止まり危うく落馬をまぬがれたという。以来、悪い事を止める天神様として大人気。

この地は旧東海道「六郷の渡しがあった場所。境内に六郷の渡し跡説明板や六郷の渡し杭などもあり往時の面影が少しだけ残っている。 明治7年(1874)に木橋が掛けられたがこれも流失し強固なコンクリート橋が架けられたのが大正14年(1925)。その時の「旧六郷橋 橋門」(右)がすぐ裏の宮本台緑地に保存されている。

多摩川の土手に上り さらに階段を上って六郷橋を渡るといよいよ川崎宿。

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