宇治茶を将軍家に献上する
ための茶壺道中。各藩の負担は
大きかったようだ。 |
李氏朝鮮からの友好使節が、
最初に将軍家からの慰労の
言葉を受けるのが岡崎宿である。 |
宿場だけでは不足する人馬を、
周辺の村々から調達する制度。 |
後には三味線を弾き、唄や踊り
の披露もするようになり、これを
目当ての客も増えた。 |
天正十八年に岡崎城に入城。
以降十年間、新しい城下町造り
を行う。矢作橋も田中が架けた。 |
旅行者は、宿場毎に馬や人足を
雇いながら旅をした。つまり、
継立てをしながら旅を続けていた。 |
一般用の町飛脚は、毎月東海道を
3度往復したことから三度飛脚。 |
今でいう専売公社。塩座以外に
茶座、魚座、煙草株などがあった。 |
徳川家康の命で造られた施設。
家康が「塚にはええ木を植えよ」と
いったのを間違え榎を植えたか。 |
葱門は、東海道から城郭内に
入る為の出入り口。 岡崎城の
東西2カ所。 |
岡崎宿には旅籠屋が
百十二軒あったとされ、
東海道では3番目の規模。 |
塩商人の国分家が、屋敷内に
「市陰亭」という書斎を造り、多くの
文化人達と交流をもった。 |
徳川家康の命で造られた施設。
家康が「塚にはええ木を植えよ」と
いったのを間違え榎を植えたか。 |
旅には往来手形が必要で
あった。伊勢参りなどの旅だと
手形が容易に発行されたそうだ。 |
大名行列などが来ると、
土下座など細かな諸注意が
「作法触れ」として出された。 |
岡崎宿の名物「八丁味噌」など
とともに、あわ雪茶屋で出された
「淡雪豆腐」が人気があった。 |
海道の紀行文や、道中記には
必ず登場したという。
現在の矢作橋より長かったそうだ。 |
田中吉政は、防衛上の必要性から、
城までの距離を伸ばし、間道を
多くした道造りを行った。 |
「駒牽朱印」は徳川幕府が、
公用に伝馬を使用するときに
用いた権威ある朱印。 |
岡崎宿には、伝馬通りに
本陣三軒、脇本陣が三軒あった。 |