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鎌倉古道
湯坂路
街道地図
平安時代以前の東海道は箱根山の西、御殿場から足柄峠を越えるルートであったが
延暦2年(802)の富士山噴火によって閉ざされたため新たに開かれたのが湯坂路。

箱根湯本から箱根山中に入り、浅間山、鷹巣山などの尾根を経て精進池畔を通り箱根
権現へと下るルートで鎌倉古道とも呼ばれている。 この道は源頼朝が二所詣(箱根権現・
三嶋大社・伊豆山権現)
の際利用したという。徳川幕府によって箱根東坂のルートが開かれる
までは多くの旅人が行き交う幹線道路。今はハイキングコースとして整備されている。

今回は芦ノ湖から下るコースを歩くことにした。お玉が池に寄り道した後、精進池周辺の
箱根石仏群、芦の湯を経由して湯坂路入口から旧道に入り、鷹巣山、浅間山を通って
箱根湯本へ下るルートである。

湯坂路途中の案内板から抜粋
 平成28年2月27日

今回の旅は登山が目的ではないため箱根湯本からバスで元箱根まで行き、そこから下ることとした。
スタートは「箱根神社一の鳥居」(左)前から。正月恒例の箱根駅伝で選手が駆け抜けるこの鳥居はつい最近の平成5年(1993)に建て替えられたもの。国道を跨ぐ鳥居としては日本一の大きさだとか。

鳥居脇に鎮座していたのが「身替わり地蔵」(右)。ある年、箱根を通りかかった梶原景季が暴漢に襲われたが地蔵尊が身替わりとなり命を助けられたのだという。

鳥居を潜ったすぐ先の左側は「賽の河原」(左)。ここは江戸時代に東海道を旅する人々の信仰を集めた場所。湖畔に多数の石仏や石塔が並んでいたが今はこの一角だけに。

鳥居の手前を右に曲がると旧東海道。ここにも江戸時代の杉並木が残っている。

その先から旧東海道の権現坂に入る予定であったが工事中で入れず。 右側の急坂を上ると旧東海道の「石畳道」(右)と交差するのでここは迷わず右へ曲がって石畳道へ。

数分歩いた先の「お玉観音堂」(左)には悲しい歴史が。
元禄15年(1720)、奉公先の辛さに耐えかねて実家に戻ろうとした「お玉」は箱根に差し掛かったが通行手形が無い。 夜陰に紛れて関所を越えようとしたが木柵に阻まれ捕えられて処刑されたという。

県道に出てしばらく歩くと左下に見えたのは「お玉ケ池」(右)。処刑された お玉 の首は「なずなが池」で洗われたのだが いつの頃からか「お玉ケ池」と呼ばれるようになったのだとか。

お玉ケ池の右手を回り込んで精進池まで歩くコースを選んだのだが「石組の階段」(左)が延々と続き少々キツイ上り坂であった。  コメント:このコースは湯坂路ではない。

20分ほど歩くと「国道1号」(右)に合流。どこかで見たような景色だが、と思ったら左手に家がポツンと見えるこの風景は正月恒例の箱根駅伝で見る景色だ。今は広くなって往時の面影は無いが ここはかつての湯坂路。

遊歩道から国道に合流したら左に曲がって寄り道を。1~2分歩くと源頼朝がこの道を歩いたという証拠が見つかる。
それは街道際にある「御状石」(左)。説明板によると「源頼朝がこの石の上で書状を書きしたためた」という大石。

先ほど見えた一軒家は「石仏群と歴史館」(右)。鎌倉時代から室町時代にかけて、この周辺に多くの石仏や石塔が造られたが それらの資料が分かりやすく展示されている。疲れた足の休憩にも最適。

歴史館から見える「精進池」(右)は静かなたたずまいだが 娘に身を変えた大蛇が住んでいたという伝説がある。湯治に来た男が娘との約束を破ったため池に引きずり込まれ命を落としたというのだ。

精進池の辺りは荒涼とした風景が広がり旅人にとっては「この世の果て」とも思える場所であった。そんな旅人を慰めるためだろうか、数多くの石仏や石塔が祀られている。

遊歩道を数分歩き国道下のトンネルを潜った先は「六道地蔵堂」(右)。御堂の中の地蔵菩薩は大きな岩に彫られた磨崖仏。正安2年(1300)の造立で国指定の重要文化財。

遊歩道に戻りちょっと歩くと歩道際に「八百比丘尼の墓」(左)が。八百歳まで生きたという伝説上の女性だが、この墓が造立されたのは観応元年(1350)。なぜ八百比丘尼の墓なのかは定かではない。

比丘尼の墓対面の「応長地蔵」(右)は応長元年(1311)に造立された磨崖仏で国指定の重要文化財。地蔵菩薩が3体彫られている。別名 「火焚き地蔵」 とも呼ばれ戦前までは地域の人々が新盆のときにこの地蔵の前で盆の送り火を焚いたのだそうだ。

精進池の先に見えたのは「多田満仲の墓」(左)。大和国の石工によって永仁4年(1296)に造られたと考えられる宝篋印塔で関東では最古のもの。国指定重要文化財。

その先の岩面に石仏が彫られているがこれは「二十五菩薩」(右)。永仁元年(1293)頃から彫られ始めたという磨崖仏で、国道の西側に23体、東側に3体の計26体ある。国指定の重要文化財。
本来の二十五菩薩とは意味合いが違うが なぞらえてそのように呼ばれているようだ。

国道下のトンネルを潜って東側に出たら遊歩道を数分、三基並んだ五輪塔は「曽我兄弟と虎御前の墓」(左)。
永仁3年(1295)に建立されたもので水輪に地蔵菩薩が彫られていることから地蔵を信仰する集団が建てたものと推定されている。

その先も遊歩道を歩き国道に合流したら横断して芦の湯に入って行くのだが入口に芦の湯 東光庵通り」(右)と記された標柱が。上部に描かれた絵のなんとも色っいこと。

芦の湯は古くから温泉が自噴しており弘安3年(1280)には山岳信仰の行者たちが湯治場として使っていたという記録が残っている。 温泉場としての歴史は古く 寛文2年(1662)、 勝間田清左衛門なる人物がこの地を干拓し温泉場としての歴史が始まったが その湯宿が現在の「松坂屋本店」(左)。

その手前の「きのくにや」(右)も歴史が古く創業は300年ほど前の正徳5年(1715)。「箱根の山は天下の剣・・」で知られる「箱根八里」は滝廉太郎が きのくにや に滞在中に作ったのだそうだ。

松坂屋本店の脇を入り階段を上ると目の前に「東光庵」(左)の鄙びた建物が見える。江戸時代半ば、薬師堂に設けられた茶室に文人墨客が集い詩歌や俳句などを作り風雅を楽しんだという。
残念ながら明治4年(1871)に火災で焼失。現在の建物は文献などに基づいて平成13年(2001)に復元されたもの。

この時、隣の「熊野神社」(右)も一緒に再建されている。

東光庵の前庭には多数の歌碑や句碑があるが、その一部です。
 久かたの大津御宝をさむとか
   はこねの山はつくりけらしも
  真淵
 てる月の鏡をぬいて
  樽まくら 雪もこんく 花もさけく  四方山人
 しはらくは花の
   うえなる月夜哉     芭蕉翁

熊野神社下の「薬師堂」(左)は徳川家康の四女・徳姫の霊堂として京都・知恩院に寄進されたもの。その後、三井家大番頭の別荘に移築されたが現在は松坂屋本店の所有。

松坂屋本店の裏から車道に抜けると「阿字ケ池」(右)が見られる。干拓が行われた当時、葦が繁茂していたことから葦の池と呼ばれ、いつの頃からか阿字ケ池になったのだとか。 実はこの池は 葦の池 時代のものではなく戦時中、この地に駐屯していたドイツ兵が空襲に備え防火用水として掘ったもの。

芦の湯を出て国道1号を15分ほど歩くと「湯坂路旧道入口」(左)に到着。 湯坂路(鎌倉古道) と記された大きな標柱と案内地図が掲示されている。

しばらくは「緩い上り坂」(右)。今は冬枯れだが新緑の頃は素晴らしい景色を見ることができるだろう。

十数分歩いて到着した場所は「鷹巣城跡」(左)。
説明板によると「後北条氏が秀吉の小田原攻めに備えて築城した山城のひとつだが、位置、規模など不明な点が多い」。

この先は 「かなり急な下り坂」(右 )や階段の連続で苦労するが途中には石畳道が残されており往時の雰囲気を楽しみながら歩くことができる。


ほどなく到着した場所は「浅間山」(左)。元々は下鷹巣山と呼ばれ鷹巣城はこちらにあったとの説もある。浅間山と呼ばれるようになったのは江戸時代に山の中腹に富士山信仰の浅間神社が祭られてから。
展望はそれほど良くないが草原が広がり気持ちが良い場所だ。ここは小涌谷・千条の滝方向との分岐点。

浅間山から10分ほど下ると「大平台分岐」(右)の案内がある。その先は歩いても歩いても下り坂。それほどキツイ坂ではないが長い時間の下り坂は足にくる。

そのうち情緒ある「石畳の道」(左)になるが、かなりきれいに並べられているので比較的最近に整備されたのではないだろうか。

1時間ほど下ってくると「湯坂城跡」(右)に到着。室町時代に御厨(御殿場地方)から西相模に勢力を持っていた大森氏が築いた城であるが北条早雲に滅ぼされ後北条氏の支配下に。

湯坂城跡から先はジグザグに下る急坂。石がゴロゴロしており、かなり歩きずらい。

湯坂城跡から30分ほど下って来ると車の騒音が聞かれ程なく車の流れが見えて「国道1号に合流」(左)。

こちら側の「湯坂路入口」(右)がちょっと分かりずらいが箱根湯本駅から国道1号を箱根方向に5~6分歩き早川に架かる旭橋を渡ると、50~60m先の山側に「湯坂路」の標柱と「湯坂山登山道入口」と刻まれた石碑が建てられている。

鎌倉・室町時代の旅人が行き交い源頼朝も歩いたという箱根山中の古街道を歩けたことに満足した山歩きであった。

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