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赤山街道 大宮道 道中記

①赤山陣屋跡から大間木まで   ②大間木から永田陣屋跡まで

①赤山陣屋跡から大間木まで      街道地図

令和2年10月19日 

赤山街道大宮道を歩くにあたっての最寄り駅は埼玉高速鉄道の新井宿駅。駅を出たら県道161号を15~16分歩き曲輪バス停先の交差点を左に曲がって行く。

左に曲がったすぐのところに鎮座しているのは「赤山日枝神社」(左)。寛永年間(1624~44)に関東郡代の伊奈家3代忠治が赤山陣屋をこの地に構えたが、そのさい陣屋の守護神として祀られたと伝わっている。

数分歩くと立派な「赤山城址碑」(右)と説明板が。 関八州30万石の幕府直轄地を支配していた伊奈氏が築いた陣屋は、本丸、二の丸、出丸を空堀や土塁で囲んだ本格的城郭形式であったことから赤山城とも呼ばれていた。その後170年に渡って代官職を続けたが忠尊の代(寛政3年)に養子問題など些細なことで領地没収となってしまった。
城跡は公園として整備され随所に説明板が建てられているので見学しないのはもったいない。ひと通り見て回ることに。                   こちらのHPに詳しい案内があります。

城址碑前から出発すると源長寺の案内があるが、新井宿駅からこちらに来る途中に寄り道したのでちょっと触れておく。
「源長寺」(左)は伊奈忠治が赤山の地にあった古寺を再興して元和4年(1618)に菩提寺として創建。2代住職源貞上人は伊奈忠次の三男(忠治の弟)で、後に京都知恩院に晋董(晋山・退董)した高僧であった。

本堂の左手に「伊奈家の墓地」(右)があるが累代の墓ではなく2代忠次、3代忠治は源長寺以外に葬られている。右側に伊奈家頌徳碑があるが、これは5代忠常が寛文13年(1673)が建立したもの。
 コメント:忠次・忠治の墓は鴻巣市の勝願寺。

赤山城址碑前を出発して15~6分歩くと日光御成道に合流。東京外環自動車道の下を抜けた先の右奥は真乗院。本堂前の石仏群の中に「地蔵菩薩道標」(左)がある。説明板によると、元文2年(1737)の造立で正面に「南江戸ほんがう道」、左右に「北いわつき道」「江戸あさ草道」と刻まれているそうだがほとんど読み取れない。

その先5分ほどの街道際に「御嶽塚」(右)と呼ばれる塚があり、塚上の建屋の中には3体の石像が。御嶽と言えば山岳信仰のはずだが真ん中の石造は衣冠束帯に笏を持つ公家の正装姿。高貴な御姿だが、この石造が御嶽大神だろうか。

この先で日光御成街道から離れ東北自動車道の上を通って吉場安行東京線に合流。

十数分歩くと阿弥陀堂と刻まれた立派な標石があるので寄り道を。庚申塔が並んだ参道奥に「猿田彦大神道標」(左)があるが、これが今まで見てきた道標とはちょっと違う。正面の真ん中に「北 大門江二十八丁 岩つき江三里」右側に「西 かねさきふしへ壱丁 八町かし江五丁 浦和江二里 大宮江三リ 秋葉江六里」 左側に「東 新町江八丁 草加江二里 こしかや江二里 千住江四里」 さらに右側面、左側面にも行き先が刻まれており、この道標を作った人の思い入れが凄い。

ほどなく「見沼代用水東縁」(左下)に架かる橋を渡るが、その手前を右に入った奥は「木曽呂富士塚」(右)。寛政12年(1800)に富士講の信者らによって築造されたもの。塚の麓に享和4年(1804)の石灯籠や天保4年(1838)の石鳥居など多くの石造物が残されている。

見沼代用水は8代将軍・吉宗の命を受けた伊沢弥惣兵衛によって享保13年(1728)に完成した農業用水路。利根川から取水し途中から東縁と西縁に分岐するが、その総延長は80kmに及ぶ。

見沼代用水の隣に鎮座する「稲荷神社」(右)は元々は三室女体神社が行う御船祭の御旅所が置かれた場所。寛政3年(1791)に京都伏見稲荷大社から正一位稲荷大明神の分霊を勧請して創建。村民の鎮守とされてきた。

ほどなく芝川に架かる八町橋を渡るが、その手前の神社は「水神社」(左)。 享保17年(1732)の創建と伝わるこの神社は見沼通船堀が開通し水運が盛んになった頃、河川輸送に携わる人達によって水難防止を祈願して祀られたもの。

水神社の後ろの水路が「見沼通船堀」(右)と呼ばれる運河。東西の見沼代用水を繋ぐ運河で芝川との3mの水位差を調整するため途中に2ヵ所の堰門を設け船の通行を可能にした。通船堀の開通によって見沼代用水縁周辺と江戸との間の舟運が発達。この舟運は大正時代まで続いていた。

八丁橋の先に見える立派な古民家は「鈴木家住宅」(左)。鈴木家は享保17年(1727)、伊沢弥惣兵衛に従って見沼干拓事業に参加。見沼通船堀完成と同時に幕府から差配役に任じられ通船業務に携わったが、この建物はこの頃の建立と考えられている。

4~5分歩くとまた「稲荷神社」(右)が。この辺りには見沼通船の会所が設けられ船頭など舟運に係わる人達が多く居住しており。それらの人達によって享保16年(1731)に創立。

稲荷神社の数分先に鎮座しているのは「附島氷川女体神社」(左)。この附島に氷川女体神社が祀られるようになったのは三室村に鎮座する三室氷川女体神社の社領がこの地にあったためと云われている。 ちなみ北西方向3kmほどに鎮座する三室氷川女体神社は武蔵国有数の古社で、所蔵する文化財が多いことから「埼玉の正倉院」とも呼ばれているのだとか。

さらに数分歩くと「見沼代用水西縁」(右)の流れがあり、この奥に東縁から芝川を越えてきた見沼通船堀が西縁に接続。

見沼代用水西縁から先の旧道は消滅状態。ここは一旦県道235号に入りJR東浦和駅前を通って最初の交差点を右折すると旧道に復帰。

旧道に復帰した先は大間木氷川神社。当神社の創建年代は不詳だが、室町期ではないかと推定されている。
さいたま市の指定文化財である「本殿」(左)は寛文7年(1667)に大宮に鎮座する武蔵国一之宮氷川神社(大宮氷川神社)が本殿を建て替えた際、買い受けたもの。

5分ほど歩いた先の清秦寺に「見性院殿之墓」(右)がある。 見性院は武田信玄の次女で武将穴山梅雪の妻となり、梅雪亡き跡は徳川家康の庇護を受けていた。
清秦寺のもう一か所の見どころは庚申塔群。駐車場の端に並んだ351基の文字庚申塔は見ごたえ十分。

この先しばらくは住宅地の中の道を歩き、越谷街道(国道463)を横断、その先も住宅地の中の生活道路。
しばらく歩くと道路際に「笠付きの庚申塔2基」(左)。 銘を見ると文政5年(1823)と寛文3年(1663)とあるが大事にされているようだ。

街道から一歩右へ入った丁字路際の茅葺建物は「旧高野家離座敷」(右)。欄方医であった高野隆仙が建てた離座敷で文人墨客の交流の場として使われたが、幕政批判で投獄され脱獄した高野長英をかくまった座敷でもある。

この先も住宅地の中を行き国道463号バイパスを横断していくのだが、バイパス沿いにJR浦和駅行きのバス停があるので今回の大宮道歩きはここまで。

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