(2) 高井戸宿 またまた閻魔大王とにらめっこです |
高井戸宿は人馬を常備するなどの宿駅業務を上高井戸と下高井戸の2宿が半月交替で受け持つという形態が取られており
高井戸2宿と呼ばれていた。内藤新宿が出来てからは宿泊客が大きく減り厳しい経営が続いた宿場であった。
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笹塚から先はいよいよ本格的な街道歩き。だが 「甲州街道と高速道路の2段重ね」(左)にはまいった。騒音と排気ガスの二重苦だ。
20数分歩くと明大和泉校舎前。この辺りは江戸時代に「塩硝蔵」(鉄砲・弾薬の倉庫)(右)であった場所で明治維新とともにそれらはいち早く官軍が押収。 押収された弾薬類は反政府軍鎮圧に使われたのだが、もし幕府軍の手に渡っていたら日本の歴史が変わっていたかも。
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明大前から10分ほど歩くと玉川上水緑地公園があるので手前を右に曲がると急に静かな街道に。ここから先は「宅法寺を始めとして6軒の寺が並ぶ」(左)。6軒目の永昌寺は江戸・四ッ谷にあったが明治43年(1910)に当所へ移転。注目は「山門前の地蔵尊」(右)。延宝5年(1677)建立というから300年以上前のもの。庚申塔も古そうだ。
再び国道に戻り左側に移って 目指すは下高井戸宿。
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10分ほど歩くと「一里塚」(左)というバス停があるのだがそれらしいものは見当たらない。名前が残っているだけでも嬉しいね。さらに十数分歩くと 「一里塚跡」(左)の説明板があった。上北沢一里塚があった場所だが高速道路の工事で撤去。バス停とは大分離れているが、ま、いいか。
この先の横断歩道を右側に渡ると江戸庶民の喉を潤した「玉川上水跡」(右)が細長い公園となっている。
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バス停一里塚辺りから一里塚説明板の辺りまでが下高井戸宿が有った場所で本陣も有ったようだが今はその面影は全く見られない。
甲州街道をさらに進み環状8号を過ぎると旧甲州街道は国道20号と分かれて左に入って行く。この辺りが上高井戸宿であったが ここも面影は無い。 |
旧道に入って10分ほど歩くと左に入る道沿いに「橋場跡と地蔵尊」(左)が。説明碑があるが判読が難しい。 地蔵尊は江戸時代にこの辺りで繁栄した下山一族が建立したもの。
さらに20分ほど歩くと右側の民家 門前に「新一里塚碑」(右)が建てられている。明治3年(1870)に作られた一里塚で内藤新宿を基点に建立。塚の上にあった道標が右写真の石柱で幾多の変遷を経てここに収まったのだそうだ。
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この先の「仙川」(左)を渡ると旧街道は国道に合流。仙川の橋を渡るとき ふっと下を見るとまだ8月だというのにもう水鳥が泳いでいる。北国へ帰らなかったのだろうか。
国道に合流したら右側に渡りしばらく歩くと京王線仙川駅入り口交差点際に立派な「仙川一里塚跡碑」(右)が。何枚か写真に撮ったが地元の人は全く無関心に通り過ぎてゆく。毎日見る風景だものなー。
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7〜8分歩くと右に下る道があり「瀧坂旧道」(左)の石碑がが。この石碑には「馬宿川口屋」とも刻まれているが川口屋は昭和初期(1927〜)まで馬宿の営業を行っていた。
甲州街道を歩き始めて初めて旧街道らしい雰囲気を味わうことが出来る「瀧坂」(右)であった。下りはじめてすぐに薬師如来様が微笑みかけてくれたりと一層雰囲気を盛り上げてくれる。 残念ながら数百メートルで国道20号に合流。
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瀧坂から4〜5分歩き駐車場脇の道を入ると真っ赤に塗られた「金龍寺山門」(左)が見える。真っ赤な(朱色)山門はついぞ見たことが無かったが「朱は魔よけの色」ということから朱色の山門を持つ寺院が他にも有るそうだ。
山門を入ると「閻魔様」(右)がこちらを睨んでいる。この閻魔様は少々お年を召したようなお顔で あまり怖さがない。にらめっこをしたら勝ちそうだが閻魔様には一目置いておこう。
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この先右側を歩いていると庚申塔や地蔵菩薩が祀られていたりと、江戸時代を少しだけ感じることが出来る街道を「布田五宿」へ向かっていく。 |
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