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日本橋から浅草界隈 街道地図

浅草と言えば「雷門」 いつ来ても賑やかだ。

日本橋を北に向かって出発した日光街道は中山道と同じ道をたどるが400mほどで中山道と別れ右へ曲がって行く。
江戸時代から続く繊維問屋街の日本橋横山町、門前町として今も賑わう浅草界隈を通り、隅田川を渡ると千住宿である。

 平成19年2月19日

東海道・甲州街道を歩き終わると もう次を歩きたくなった。しかし中山道を歩くには準備が出来ていない。それなら軽く日光街道を、と日本橋を北に向かって出発。

日本国道路元標小津和紙店その前に見ておきたいのが日本橋の真ん中に埋め込まれた全ての道路の起点となる「日本国道路元標」(左)。明治44年(1911)に設置された東京市道路元標は都電の廃止に伴い撤去され、今は日本橋北詰めに移設・保存。

いよいよ日光東照宮に向かって出発だ。
日本橋から四つ目の信号を右に曲がり昭和通りを地下道で横断すると さっそく江戸時代の息吹を感じることができる。
目の前に見える店舗は承応2年(1653)創業の「小津和紙店」(右)。手漉き和紙専門店であるが和紙博物館、紙漉き体験工房なども併設されているので覗いてみると面白い。

宝田恵比寿神社旧日光街道道標

小津和紙を出て次の十字路を左に100mほど入ると鎮座しているのは「宝田恵比寿神社」(左)。小さな神社であるが、実は徳川家康と関係がある神社なので訪ねてみた。宝田神社は村の鎮守様であったが徳川家康から「江戸城拡張の邪魔だからどきなさい」と言われ この地に移ってきたのだとか。一般的にはあまり知られていないが「べったら市」の神社と言えば知る人は多いのではないだろうか。

街道に戻り数分歩いた先、ギンモンドホテル右端の植え込みの中にひっそりと立っている石碑は「旧日光街道道標」(右)。
コメント:ギンモンドホテルは無くなり、石碑は駐車場の右端に移設。


松陰先生終焉の地碑横山町繊維問屋街次の信号のある交差点まで来たら十思公園に寄り道を。交差点を左に曲がり江戸通りを渡った先を左に入る。
ここは伝馬町屋敷牢が有った場所で 広大な敷地に全国の囚人が集められていた。吉田松陰もここで処刑されており、公園奥の石碑に刻ま刻まれた文字は「松陰先生終焉地」(左)。

街道に戻り大伝馬本町通りを抜けると江戸時代から続く「横山町繊維問屋街」(右)。見渡すかぎり衣料品店。右に曲がっても左に曲がっても衣料品店。圧巻!


問屋街を出たら左に曲がり苦手な地下道に入って浅草という文字を頼りに再び地上へ。この先は江戸通りが旧日光街道。

郡代屋敷跡浅草見付跡碑地上に出るとその先の交番辺りが「郡代屋敷跡」(左)。関東一円の幕府直轄地を統括する代官所であるが地元の人達は郡代屋敷と呼んでいた。すぐ先が神田川に架けられた浅草橋。橋下に「屋形舟」(左)が見え屋形舟る。風情あるねー。

橋を渡ると植え込みの中に建てられていたのは「浅草見付跡碑」(右)。橋は軍事上の重要拠点、しかも日光・奥州街道筋、ここは江戸を警護する見付が有った場所。


JR総武線の浅草橋駅高架下を通ると道路向こう側に「秀月」「久月」などお馴染みの屋号が見えるが、この辺りは人形店が多い。

看板猫浅草文庫跡碑

さらに数分歩くと店頭に「看板猫」(左)が。声を掛けるとチラッとこちらを見るがまた寝てしまう。この猫は日がな一日ここで寝ているのだとか。

看板猫の先の交差点を右に曲がり交番の左脇を入ると 榊神社
ここは かつて「浅草文庫」(右)が有った場所。明治早々に創設された図書館だが その当時すでに和漢洋書など10万冊以上の蔵書だったというからすごい。


街道に戻り蔵前交差点まで歩くと交差点左側に 天文台跡 と記された説明板がある。正式には領歴所御用屋敷。

鳥越神社浅草御蔵跡碑

浅草まで来たのだから見ていこう、と向かった先が「鳥越神社」(左)。この時期はひっそりとしているが鳥越祭りのときは大変な賑わい。江戸三大祭りには及ばないが千貫御輿は東京一の重さとか。

交差点まで戻りそのまま真っ直ぐ進むと蔵前橋の袂に到着。 ここは蔵前の語源となった幕府の米蔵があった場所。石碑に刻まれた文字は「浅草御蔵跡」(右)。
道路向こう側には 首尾の松 と言われる松があるが車道を横切る分けにはいかない。遠望で見たことにしとこ。

駒形どぜう店駒形堂

街道に戻り浅草方向に歩くと「駒形どぜう」(左)の大きな看板が。店先の どぜう と染め抜かれた暖簾と匂いに誘われて店内へ。  どぜう鍋定食を食したが旨かった!

駒形どぜうの先の浅草通りとの交差点を右に曲がると駒形橋の名前の由来となった「駒形堂」(右)の赤い建物が見える。では、何故 駒形堂なのか。諸説あるので、いずれかの機会に。


仲店通り

浅草寺雷門浅草通りとの交差点は五差路であるがV字形の右側が 旧日光街道、 左側の道の先が浅草を代表する「浅草寺雷門」(左)。

浅草寺は推古天皇36年(628)、漁師の網にかかった観音菩薩像を供養したことが始まり、というから1400年近く前。気の遠くなるほど長〜い歴史を持つお寺さんだ。

雷門を入り 「仲店通り」(右) を見渡すと平日だというのに人、人、人・・・・。凄いナー。でも話声は中国系。


三匠句碑芭蕉句碑

浅草寺には芭蕉句碑が2基ある。
本堂の左手、 新興山 には沢山の石碑があるが その中に「三匠句碑」(左)という石碑があり、宗因・芭蕉・其角の三俳人の句が刻まれているが代表して
   花の雲 鐘は上野か 浅草か   芭蕉

宝蔵門(仁王門」の右手、 時の鐘 の前に建てられているのが「芭蕉句碑」(右)。(文字はほとんど読めない)
    くわんをんの いらかを見やりつ 花の雲   はせを


浅草寺で長居をしてしまったので急いで街道に戻ったら、三社祭の浅草神社にお参りすることを忘れてしまった。 まっ、いいか。

姥ケ池跡碑芝居小屋跡の説明板

東武線のガード下を通って100m程先を左に入った花川戸公園「姥ケ池跡碑」(左)が建てられているが、ここには怖〜い伝説が。
その昔、娘が連れてくる旅人の頭を石で叩き割る恐ろしい老婆が居ったそうな。いたたまれなくなった娘は自身が旅人の身替わりとなって石に打たれ死んだそうな。老婆は悲しんで池に身を投げてしまったのだとか。

言問(こととい)通り との交差点まで来たら交差点を渡って左に曲がると「芝居小屋跡の説明板」(右)が。 天保の改革で廃止と決まった芝居小屋が遠山景元(遠山の金さん)の献策で この地に復活。 よっ、金さん!


言問通り との交差点も五差路。今度はV字の左側が 旧日光街道 。交差点から200mほど歩き右に入ると 待乳山(まつちやま)聖天。

待乳山(まつちやま)聖天の築地塀今戸焼発祥の地碑と沖田総司終焉の地碑

階段を上った右側に広重の錦絵にも描かれている「築地塀」(左)が数十mほど続く。瓦を積み上げた土塀だが白黒写真を見るような味わいのある塀だ。

浅草最後の見所は招き猫が有名な今戸神社。かつては今戸焼で繁栄した場所。境内に「今戸焼発祥の地碑」(左)が建てられているが、今は窯元が1軒という寂しさ。

今戸焼碑隣りの小さな石碑は新選組の隊士「沖田総司終焉の地碑」(右)。肺の病で療養していたが甲斐なく没したのがこの地。(千駄ヶ谷が終焉地という説もある)


街道に戻ると この後は吉野通り(旧日光街道)を南千住に向かって15分ほどの歩きだ。


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