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(3)越ヶ谷宿 街道地図
前足を荒縄でぐるぐる巻きに縛られた狛犬がいましたよ
鎌倉時代から栄えていた越ヶ谷は奥州海道(後の日光・奥州道中)が整備されるとすぐに宿場として制定されている。徳川家康が鷹狩りで
たびたび訪れており、そのための御殿も建てられていた。宿場の規模は本陣1,脇本陣4,旅籠52軒とかなり大きなものであったが明治期
の2度の大火で大半を焼失し当時の面影はあまり見られない。
(コメント:海道は亨保元年(1716)に道中に改められ、さらに明治以降に街道となった)

 平成19年3月7日

草加宿を出て綾瀬川沿いに歩き、蒲生大橋を渡ると越ヶ谷。


蒲生一里塚不動明王と馬頭観音蒲生一里塚標柱

橋の向こうに見える大木は「蒲生一里塚」(左)のムクエノキ。埼玉県内唯一の現存一里塚であるが残念ながら堤防より低い位置にあるため一里塚らしくない。

しばらく歩くと道路右側に「不動明王と馬頭観音」(右)が祠の中に。 不動明王の台座は道標になっているが達筆すぎて読めないナー。
 


清蔵院の山門左甚五郎作と云われる龍の彫り物不動明王先の蒲生茶屋通りを5〜6分、「清蔵院の山門」(左)にあったのは左甚五郎作と云われる「龍の彫り物」(左)。
この龍は夜遊びが好きだったようでして夜な夜な近所の畑を荒らし回るため金網で囲われてしまったのだとか。

ところで、左甚五郎作ならば国宝級。扱いが少々粗末だね〜  説明書きを読むと日光東照宮造営に係わった工匠の作らしいと記されている。 左甚五郎なら夜遊びしないよう縛りを入れていたかも。


 ここから3月7日

窮民救済の碑里程標国道4号を40分、照蓮院手前の駐車場奥、金網で囲われた石碑・石塔の中に「窮民救済の碑」(左)という石碑がある。
瓦曽根村の名主中村彦左衛門は天明年間の凶作時に御貸付所(現在の銀行に相当)の貯金全部を払い出し窮民に与えて飢餓を救ったのだとか。これだけの善政を行えば碑にもなるわな。

その先で道は二つに分かれるが三角地帯に据えられているのは「里程標」(右)。川口・大宮・などの文字に混ざって東京雷門の文字も見えるのでさほど古くはない。


格子戸の古民家

有瀧家の黒板塀里程標の左側が旧日光街道であるが街道には昔の面影が少ない。
が、全く無いと言うわけではない。中町の路地に入ると見えたのは奥まで続く「有瀧家の黒板塀」(左)。黒板塀に沿って歩くと樹齢400年以上というタブの巨木が。

少し先には「格子戸の古民家」(右)や蔵造りの商家も何軒か有り「昔からの街道」そんな雰囲気も少しだけ残っている。


越ヶ谷御殿跡碑建長元年(1249)の板碑大沢橋まで来たら橋を渡らず川に沿って右に曲がり4〜5分、見えたのは「越ヶ谷御殿跡碑」(左)。今は痕跡が全く無いが、かつては徳川家康が鷹狩りをする際の宿泊施設として広大な御殿が有った場所。この辺の地名は今でも御殿町。

御殿跡碑から1〜2分の所に建てられているのは建長元年(1249)「板碑」(右)。刻まれている文字は梵字で卒塔婆の一種であるが「味わいのある石碑」と言ったら罰が当たるかな。


久伊豆(ひさいず)神社

前足を荒縄でぐるぐるに縛られた狛犬川に沿ってもう少し先まで歩き宮前橋を渡って「久伊豆(ひさいず)神社」(左下)に寄り道を。
橋を渡ると目の前に藁縄が巻かれた鳥居があり、その先の直線遙か彼方に見えるのが久伊豆神社。平安末期の創建ということだが葵の御紋が許されているという由緒ある神社。

「社殿両側の狛犬」(右)が面白い。なんと、前足を荒縄でぐるぐるに縛られているではないか。 悪所通いする者に対して家族が狛犬の足を縛ると家に帰って来るのだとか。
越ヶ谷には悪所通いする放蕩息子が多いのかなー。


元荒川宮内庁埼玉鴨場街道に戻り大沢橋を渡って街道をテクテク約20分。

東武線のガード下を抜けた先に堤防があるが、この川は元々は現荒川の本流であった「元荒川」(左)。先ほど通ってきた宮前橋や大沢橋も元荒川に架かる橋であった。

元荒川右手の林は「宮内庁埼玉鴨場」(右)。もちろん一般の人は入れない。


この先は次の宿場である粕壁宿まで約2里、2時間の街道歩き。

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