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布施街道 道中記

①根戸十字路から守谷まで   ➁守谷から高岡まで   ③高岡から中高津まで

➁守谷から高岡まで 街道地図

布施街道の旅 第二回目は つくばエクスプレス(TX) の守谷駅から。

雲天寺前から街道に入りTXのガード下を抜けて赤法花一里塚前を通り、小貝川を渡ってどこまでも続く
田んぼの中の直線道路を歩くのだが、見どころは少ない。小張の集落に入ったら小張十字路を右に曲がり
八坂神社、板橋不動尊などに寄り道を。筑波カントリーの脇を通って高岡の集落に入ったらバス停があった
ので今回の旅はここまで。

平成30年10月18日

つくばエクスプレスの守谷駅から5分ほど歩いて雲天寺前まで来たら丁字路を左へ曲がって行く。(八坂神社方向から来た場合は右に曲がる)
街道はその先のTXガード下を斜めに横切っていたようだが、今は道が無いので突き当りの丁字路を右へ。

十数分歩き県道46号を横断したら「工場脇の土道」(左)に入って行く。5分ほど歩いたら突き当りの丁字路を右に曲がりもう一度TXのガードを潜ったら左側の土道から「林の中に入る」(左)のだが、案内表示が無いためちょっと不安が。

薄暗い林を数分歩くと視界が開けるが そこに「赤法花一里塚」(右)が現存。 やはり旧道だった。傍らの説明板に「文政8年(1825)以前に築造されたこと、江戸時代には笠間街道と称し、常陸国笠間に通じる脇往還であったこと」などが記されている。

一里塚の前を通った旧道は県道を横断して小貝川を渡っていたが、この道は消滅。ここは県道に入り常総橋を渡っていくことに。橋を渡ると つくばみらい市 。
橋の袂下に「水神社」(左)が。かつては洪水を繰り返す暴れ川と言われた小貝川、氾濫を恐れた村民が祀ったのだろう。

小貝川を渡った旧道がどの辺りを通っていたか分からないが、現在の県道は「見渡す限りの直線」(右)。

5分ほど歩くとコンビニの道路反対側にかなり風化が進んだ「石塔が1基」(左)。わずかに 「西国と坂東」 の文字が読み取れる。西国三十三ヵ所、坂東三十三ヵ所、秩父三十四ヵ所霊場巡りのことだろう。

さらに7~8分歩くと道路際に「庚申塔が収められた祠」(右)が。道路対面に見える石塔は廿三夜塔。この先も田んぼの中や集落の中の単調な道が続くが、飽きない程度の距離に弁天社や庚申塔、鹿嶋神社や弁財天などが。

小張の集落に入ると上り坂となるが、その途中の左手は松下流綱火創始者 松下石見守長綱公開基の「高雲寺」(左)。
綱火とは、人形と仕掛け花火を結合し囃子に合わせて人形を操作しながら仕掛け花火を点火させる芸能で、戦勝祝や犠牲者の供養のため陣中で行ったのが始まりとされている。

高雲寺を出て数分歩くと布施街道では初めて見る「立派な長屋門」(右)が。

街道は7~8分歩いた先の小張十字路を右に曲がり、坂道を下ったり上ったりした後、丁字路を右に曲がって行くのだが、左に曲がって「鹿島神社」(左)に寄り道を。小さな神社だったが一つだけユニークな物が。賽銭投入口が雨水を流す縦樋とエルボで出来ているのであった。例えれば、潜水艦の潜望鏡のような。

街道に戻り数分歩くと板橋不動尊の西入口。その手前左側の奥は「八坂神社」(右)。立派な社殿だが由緒の類が無いため詳しことが分からないのが残念。

八坂神社の隣は 清安山不動院 願成寺。 地元の人達からは 板橋のお不動さん と呼ばれ親しまれている。開創1200年の歴史を持つ不動院の本尊は弘法大師空海が自ら彫刻された
国指定重要文化財の不動明王。

参道途中の立派な「楼門(山門)(左)は元禄13年(1700)の建立。朱鮮やかに弁柄が塗られた下層の両側には力強い阿吽の仁王像が配されており、その裏側には「雌雄の白犬」(右)が。

江戸の昔、この地方では難産の婦人が多く、親子共に死に至ることが多かった。 ある夜、村名主の夢枕に雌雄の白犬が現れ、我は板橋不動の使いなり、不動尊に護摩祈願を成せば難産の苦しみを救わん とのお告げ。さっそく不動尊に雌雄の白犬を奉納したところ、難産で苦しむ者一人もいなくなったという。


大同年間(806~809)開基と伝えられる不動院は天授年間(1375~80)には七堂伽藍を持つ大きな寺院であったが戦火で堂塔は全て焼失。現在の「本堂」(右)は元文2年(1737)の建立。

参道の右手に見える「三重塔」(右)は安永元年(1772)の建立。極彩色の彫刻を施した名塔で、特に尾垂木に施された龍頭彫刻は今にも飛び出しそう。

板橋不動尊を出たら板橋小学校脇を通り20分ほど歩くと県道19号に合流。その先の筑波カントリー前から県道211号に入って行く。

しばらく歩くと高岡の集落に入るが、そこで見たのは鈴生りの柿の木。自らの重さで枝が折れそう。つい先日まで暑い暑いと言っていたがもう秋も半ばですね~。

その先に「高岡流縄火傳承之地」(右)と記された看板が。高岡流縄火の起こりは江戸時代初期とされ、鎮守の祭りの時に赤と黒の蜘蛛が舞い降りて巣を作る様から村人が創作したと伝えられている。

ちなみに高岡流縄火はこの先の高岡愛宕神社の例祭日に奉納され、先ほどの松下石見守長綱公が考案(重綱公考案という説もある) したという小張松下流縄火は小張愛宕神社の例祭日に奉納される。 共に8月の下旬。

このすぐ先にバス停があったので今回の旅はここまで。 平日のバス便は13:34 14:54 17:54の3本のみなので注意を。

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