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①南柏から山崎宿
②山崎宿から東宝珠花
③東宝珠花から関宿城
④関宿台町通りから境宿
⑤境車庫から武井宿
⑥武井宿から小山工業団地前
⑦小山工業団地前から日光街道合流点
④関宿
台町通りから境宿まで
(関宿台町ルート))
街道地図
第3回の旅では本道を通って関宿城まで歩いたが、今回の旅では本道に入らず関宿台町を通り
関宿台町交差点で本道に合流。利根川に架かる境大橋を渡って境宿に入り、境バス車庫まで歩く
こととしため歩く距離はちょっと短い。その先は交通の便が極めて悪い。
境宿は関宿城下町の五町の一つ。利根川の舟運で栄えた町で、現在の商店街もかつては賑わって
いたのではないかと思える。 だが、今はちょっと人通りが少なく静かな街並みだ。
平成28年4月6日
今回は
「本道分岐点」
(左)まで来たら左の本道には入らず県道を真っすぐ進む。数分歩いたら 工業団地入口 交差点 を
「右へ曲がり旧道へ入って行く」
(右)
。
右へ曲がってすぐの場所に
旧日光街道東往還関宿多功道
と丁寧過ぎる表題の説明板が建てられている。こちらが本道と思ってしまうがちょっと紛らわしい。
旧道へ入って数分、広場奥の屋敷門は
「関宿城埋門」
(左)。明治8年
(1875
、城の解体と同時に小林家に移築したもの。敵が迫ってきた際は門の内側を3分の2程度埋めて敵の攻撃を防ぐ門なのだそうだ。
その先1~2分、三叉路の真ん中に享保2年
(1717)
に造られた
「路分け六地蔵」
(右)が鎮座。右側の石塔は天保8年
(1837)
に造立された二十三夜塔で道標を兼ねている。
旧道はこのすぐ先で県道17号に合流。合流した向こう側に菅原神社が鎮座。5~6分歩いたら再び右側の旧道へ。旧道を5~6分、右奥の
「金龍院」
(左)は天正11年
(1583)
の創建。
参道右側の
「子安観音堂」
(右)は寛政10年
(1798)
の建立だが堂内に納められている子安観世音菩薩は享保18年
(1733)
に奉納されたもの。33体の仏像が一体となっており、33カ所参りが一度で出来るという有り難い観音様だ。
金龍院を出ると再び県道に合流。浅間神社に寄り道したりしながらかれこれ15分。三叉路まで来たら左の道に入る。
左に入った奥の
「福寿院」
(左)は1400年代の中頃創建とされており関宿藩の祈願寺であった。江戸川の改修工事に伴い現在地へ移転したのだが本堂は当時の関宿城主が鬼門除け稲荷の神木を伐採し寺に寄進、再建されたものという。
本堂左手の
「観音堂」
(右)は猿島坂東三十三観音霊場の第一番。十二年に一度の御開帳には多くの巡礼者が訪れるそうだ。平成25年に御開帳があったようなので次回は9年後。
福寿院を出ると石仏・石塔が幾つか見られるのでご紹介。
福寿院の先、銀杏の大木の下にある
二十三夜塔は文化3年(1806)の造立。
明王殿脇の石仏群の中に庚申塔が2基。
左の庚申塔が寛文3年(1663)、右の庚申塔が
延宝5年(1677)の造立。
大龍寺入口の十九夜塔は文化13年(1816)の造立。
大龍寺本堂前の子育て地蔵は渡辺十右衛門が
万治2年(1659)に寄進したもの。
三十三観音霊場第二番の
「大龍寺」
(左)は天正6年
(1578)
開創という古刹だが山門は鉄筋コンクリート造りという超近代的。次のような伝説が。
その昔、主人の愛人と生まれてくる子を 祈り釘 で殺そうとした本妻を幡随意上人が諭したところ、悔いた妻は龍となって昇天。夫が 龍となった妻を供養するため寺を建立し大龍寺と命名したのだそうだ。
すぐ先の
「実相寺」
(右)は神亀元年
(742)
、行基によって開山したとされている。梁田氏が関宿城入りしたとき水海
(茨城・古河市)
から移転。本堂に安置されているのは久世家
(関宿藩主)
歴代の位牌。
本堂右手の
「客殿」
(右) は宝暦6年
(1709)
に建てられた関宿城本丸の一部で明治4年
(1871)
に移築。
山門を入った左側にあったのは
「芭蕉句碑」
(左)。
華さかり 山は日ころの 朝ほらけ
墓地の一番奥に終戦時の首相であった
鈴木貫太郎の墓
がある。
5~6分歩いた先、左奥の彼方に見えるのは
「宗英寺」
(左)。この寺は関宿城主で徳川家康の異父弟・松平康元が 慶長元年
(1596)
に創建。 山門の柱に残された
葉彫
は創建当時のものだとか。
本堂裏の墓地入口近くに
「松平康元の墓」
(右)があるのだが関宿藩初代藩主の墓にしては少々質素。
境内左手に足利晴氏
(中世古河公方)
の五輪塔がある。
街道に戻り関宿台町交差点まで来たら本道に合流して右へ曲がるのだが、手前を左に入ると昌福寺、突き当りは鈴木貫太郎記念館。
(前回記載)
ほどなく三叉路で別れた県道と合流。その先の境大橋を渡るのだが寄り道を。
県道を横断して数分、南無妙法蓮華教と刻まれた題目碑があるこの地は関宿藩の
「処刑場跡」
(左)。 説明板に斬首の様子が描かれているのだがちょっとばかりリアルすぎる。
県道に戻り
「利根川」
(右)に架かる境大橋を渡ると茨城県。
「常夜灯」
(右)が出迎えてくれる。
コメント江戸時代の渡し場は境大橋より500mほど上流であったが、関宿側にはその場所を示す石碑、説明板などは無い。
境大橋を渡ったら二つ目の信号を左に曲がり境宿を目指すのだが途中にあった
「吉祥院山門」
(左)がちょっと気になる。この鐘楼門は江戸時代・文化年間の頃、境町の豪商たちが寄進したも。
本堂の右手、地蔵堂に3体の地蔵尊が鎮座、真ん中の地蔵は本願が成就したら塩を奉納する習わしのある
「塩なめ地蔵」
(右)。どういう分けか体全体が溶けてしまったような。
吉祥院から5分ほど歩いた先の丁字路を左から右へ通る道路が境の渡しから境宿に入る旧街道で現在の境町商店街。
この丁字路を左に曲がって寄り道を。
突き当りの階段を上らず右側の坂道を上ると
「境河岸」
(右)の案内板があり、車道を横断すると
「境の渡し」
(右)と記された案内板が。ここはかつての渡し場があった付近だが今も夏場になると観光船の渡し舟が運行されている。
川岸まで下ると、まず目に入るのが
「観光船乗り場」
(左)。 整備された桟橋に屋形船の さかい丸 が繋がれている。その少し下流に突き出た半島が復元された境河岸。
上流側の堤防上には
「境河岸常夜灯」
(右)が見える。ここは「茨城百景 境の景勝」に選ばれた場所。対岸には関宿城が遠望出来、天候が良ければ富士山も望めるという。
階段まで戻ると
「旧境宿の町並み」
(右)を一望。ここも日光東往還の特徴である直線道路が見渡す限りの向うまで。
階段を下りて先ほどの丁字路まで戻ると手前に見世蔵が一軒、道路向う側に見えるのは
「高木書店」
(右)の見世蔵。この先は昭和レトロの雰囲気残る商店街だが往時の賑わいはなく静かな街並みとなってしまった。
数分歩いたら左へ曲がって
「境香取神社」
(左)に寄り道を。かなり大きな神社で参拝者も多いのだが由緒書きが無いのが残念。参道入り口にそびえている巨木は樹齢300年というサイカチ。
街道に戻り旧宿場の境中央商店街を歩いていると広場の奥にひときわ目を引く朱鮮やかな建物が。
「不動堂」
(右)のようだがここにも由緒書きや説明板の類いが無いので詳しいことが分からない。
ほどなく
「バスの終点、境車庫」
(左)に到着。この先は結城まで交通の便が極めて悪い。ちょっと早いが今回はここまで。帰りは境車庫からバスで東武動物公園駅へ。
次回は境車庫からバス便がある所まで歩くつもりだが最悪はJR結城駅までの20kmを歩く覚悟も。
前の街道
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次の街道
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まで
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