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街道松 甲州街道 道中記 街道松
街道地図
日本橋界隈   諏訪湖に向かって出発だ!その前にちょっと寄り道を。
江戸時代、五街道の起点とされた日本橋の袂から江戸橋辺りまでは活気ある魚市場が並び、
周辺には多くの商人が集まり商業の町として発展。また金座があったことから金融の町としても
栄えていた。今も日本橋界隈には江戸時代から続く商店が頑張っている。今回の旅では
これら老舗の商店を何軒か見てから出発だ。

平成18年8月1日

本橋日本国道路元標江戸に幕府を開いた徳川家康が慶長8年(1603)に元の神田川に木造の橋を架けたのが日本橋のスタート。諸説あるが、自然発生的にこの橋を日本橋と呼ぶようになり、川名が日本橋川になり、地名も日本橋と呼ばれるようになった。何度も架け替えられた日本橋だが明治44年(1911)に石造りに架け替えられたのが現在の「日本橋」(左)。

江戸幕府は慶長9年(1604)に五街道の整備に着手。その起点を日本橋と定めたが、現在も日本の道路の起点は日本橋。橋の真ん中に当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による「日本国道路元標」(右)と記されたプレートが埋め込まれている。

明治44年(1911)の道路元標日本橋魚市場発祥の地碑橋の北詰西側の植え込みの中に「明治44年(1911)の道路元標」(左)が展示されている。なかなか立派。これが橋の真ん中にあったら、それこそ「全ての道路の中心点」という存在感があったのだが。

北詰め東側には「日本橋魚市場発祥の地碑」(右)が建てられている。ここから江戸橋までの間が魚河岸で、その賑わいは大変なもの。一日に千両もの取引きがあったとか。残念ながら関東大震災後に築地へ移転となってしまったが三百年の歴史を刻んだ地。

一石(いっこく )橋しるべ石 日本橋の上流二つ目の橋が「一石(いっこく )橋」(左)であるがこの名前の由来が面白い。橋の両側に後藤家の屋敷があったので「後藤=五斗」から五斗+五斗=一石。 今の若い人には通じないかな。

一石橋の南詰めに「満(ま)よひ子志るべ」と刻まれた「しるべ石」(右)が建てられている。この周辺は大変な繁華街で迷子が多かったようだ。そこで町内の有志で作ったのが しるべ石。左右の窪みに迷子や尋ね人の特徴を記した紙を貼り、告知したのだとか。


旧常磐橋常磐橋門跡一石橋の上流側に見える橋が常盤橋だが、さらにその上流80mほどのところに架かっているのは「旧常磐橋」(左)。浅草橋口門と呼ばれていたが3代将軍家光から 「その名は良くないので変えるように」 と言われ命名された名前が常磐橋。現在の橋は明治10年(1887)に改架された石橋。

橋を渡ると石積みの枡形があり、その奥が
「常磐橋門跡」(右)。奥州街道に続く正門であったことから敵の侵入を防ぎ 味方の出撃を容易にするような枡型門であった。

日本銀行大判小判 旧常盤橋門の前が 「日本銀行」(左)。正面に回るとお馴染みのドーム屋根がチラッと見える。ここは金座が有った場所で、ここで金貨の鋳造が行われていたのだが それらしい説明などは全く無い。 日本銀行さん金座跡の標識を建ててもらえると嬉しいのですが。

日本銀行の対面が貨幣博物館。入り口に守衛が立っており ちょっと物々しい。が臆せず入ると2階が展示室で「大判小判」(右)はもとより世界中の貨幣が展示されている。珍しく写真OKの資料館であった。


冒頭でも述べたが日本橋界隈は江戸時代創業の老舗が結構多い。そこで今回は旅立つ前にこれらの老舗をちょっと見て行くことにした。

三越デパート本店創業のにんべんまずは日本銀行の前を通って「三越デパート」(左)へ。延宝元年(1673)、三井高利が江戸本町一丁目に呉服店「越後屋」を開いたのが始まり。天和3年(1683)に現在地へ移転。現在では当たり前の正札販売を初めて実現したのが越後屋であった。現在の建物は大正3年(1914)の建設。

三越の向かい側の店が寛政4年(1762)創業の「刃物の木屋」。木屋の横の道に入ると元禄12年(1669)創業の 「にんべん」 (左)。戸板に鰹節と塩干し類を並べて商いをしたのがスタート。スローフードの深ーい味わいが売りだとか。  コメント:木屋 及び にんべんはコレド室町の1Fに変わりました。


はんぺん専門の神茂(かんも)芭蕉句碑次ぎの交差点を右に曲がり数分、十字路向こうに見える店は はんぺん専門の「神茂(かんも)(右)。元禄元年(1688)創業だが いまでも店舗下の工場で自家生産を行っている。こだわりですかな。

神茂の前の十字路を右に曲がると 日本橋鮒佐。鮒佐は文久2年(1862)創業の つくだに店 であった。鮒佐の前にある石碑は「芭蕉句碑」(左)。  
  発句也 松尾桃青 宿の春 桃青
延宝6年(1676)に俳諧師匠として独立。翌年迎春に詠み上げたのがこの句。桃青は最初に用いた俳号。

山本海苔店元文2年(1737)創業の八木長中央通りまで歩き左に曲がると「山本海苔店」(右)の暖簾が見える。嘉永2年(1849)創業で当時から「海苔は山本 」の名声を確立。余談になるが味付け海苔を創案したのが山本海苔店で明治2年(1869)にこと。

山本海苔店の先、按針通りの向こう側は「元文2年(1737)創業の八木長」(左)。伊勢商人だった初代が八代将軍吉宗の頃に日本橋で創業。鰹節に力を入れた商売で二百数十年続く老舗。

その先に日本橋が見えるが橋を渡らず一つ下流の江戸橋まで歩くことに。橋名は江戸橋だが昭和通りの橋で上下8車線という広ーい橋。とても江戸時代を感じることはできない。

兜神社日本橋西川江戸橋を渡り左に曲がって数分、高速道路の下には こじんまりとした「兜神社」(左)。兜町の由来ともなったこの神社は証券界の守り神。御祭神は商業の守護神「倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 倉稲魂命さん、景気が良くなるようにお願いしますね。

兜神社を後にして日本橋まで戻ると交差点の角が「日本橋西川」(右)。近江で永禄9年(1566)に創業した老舗。江戸には元和元年(1615)に進出。西川 と染め抜かれた暖簾がいいね。

日本橋西川日本橋由来碑交差点を渡り真っ直ぐ数十メートル歩くと「和菓子の榮太樓」(左)。安政4年(1857)創業というから明治直前の江戸時代。喫茶店が併設されているが女性客ばかりだ。甘い物ばかり食べると太りますよ。

交差点まで戻り左へ曲がると橋の手前に「日本橋由来碑」(左))が設置されている。「日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ・・・・・・橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ」とある。

その他にも元禄3年(1690)創業の山本山、文化7年(1817)創業の弁松総本店、元禄年間創業の黒江屋・・・などなど、江戸時代から続く老舗がまだまだ沢山ある。これらの老舗を訪ねるだけでも結構面白い。山本山から少し戻り日本橋交差点を曲がって甲州街道の旅に出発。江戸時代の甲州道中は東京駅近くを横断していたようだ。今は道が無いので日本橋交差点で曲がることに。

将門塚江戸城大手門 江戸城大手門に向かって真っ直ぐ歩き大手町交差点を左に曲がると甲州街道だが「将門塚」(左)に寄り道を。東海道掛川宿の先で十九首塚を見たが東京にも将門塚があった。云われを読むと 「天慶の乱で討ち取られた将門の首級は京都に送られ獄門に。ところが三日後に白光を放って飛び去り この地に落ちた」 という。

大手町交差点まで戻り右に曲がって「江戸城大手門」(右)を見学。ここは外人の観光客が多い。


和田倉橋馬場先壕 再び大手町交差点に戻り右に曲がって数分歩くと「和田倉橋」(左)に到着。擬宝珠の乗った木製の橋はなんとも言えない風情がある。

この先は右側の「馬場先壕」(右)をながめながらのウオーキング。馬場先門前を通り日比谷交差点まで来たら堀に沿って右へ曲がるのだが ここでもちょっと寄り道を。


日比谷見附跡法務省の赤レンガ棟交差点の向こう側が日比谷公園だが ここは「日比谷見附跡」(左)。石垣の一部が残っており見附跡標柱が建てられている。 江戸城日比谷御門の一部がこの日比谷見附であるが日本橋上流の常磐門から日比谷御門まで江戸城は広い!

日比谷公園から堀に沿って5~6分歩くと左側に「赤煉瓦の建物」(右)が目に入る。法務省の赤レンガ棟でひときわ目立つ存在。この一角は米沢藩上杉家江戸藩邸跡で植え込みの中に立派な石碑


米沢藩上杉家江戸藩邸跡碑隼町一里塚跡付近堀の向こうに見えるのは井伊直弼暗殺現場となった桜田門。街道から見える門は桜田門高麗門でこの門を入ると「桜田門櫓門」(左)が右に控えている。枡形門になっているわけだ。

桜田門の交差点で右側の三宅坂を上る道が甲州街道。三宅坂を上っていくと頂上が半蔵門で その手前辺りが日本橋から一里の距離で「隼町一里塚があった場所付近」(右)。残念ながら痕跡は全く見あたらない。マンションの石垣辺りかと勝手に想像。

都会の真ん中にしては比較的江戸時代を感じることができた街道歩きでした。丹念に見て歩くとまだまだ見どころ多く面白い。この先は江戸城半蔵門を見て内藤新宿へ。


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