箱根・碓井と並ぶ重要な関所である栗橋関が置かれた宿場であったが、元々からあった宿場ではなく栗橋村の住人が機能を整えた上で
幕府に願い出て開いた宿駅である。後に利根川の向こうにあった関所が栗橋側に移されたことから大変賑わた宿場であった。 |
国道の左側を20分ほど歩いただろうか。「小右衛門一里塚」(左)に到着。ここは左側だけだが現存の一里塚。ところが塚の上に神社があるので一里塚らしくない。残念だなー。
単調な道がまだまだ続く。新幹線の下を通り 一旦国道に合流したあと、すぐに左に下る道が旧日光街道。静かな街道を10分ほど歩きY字路を右に入ったすぐの赤い鳥居奥に見えるのは「会津見送り稲荷」(右)。 江戸時代、会津藩士が道に迷ったとき助けてくれた老人が実は狐の化身だったのだとか。
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この先で再び国道に合流するが その手前の細い道に入って行く。 実はこの辺りも どれが正しい旧街道であるのかよく分からない。
街道の右奥に見える小さな御堂は「焙烙地蔵」(左)。昔、この地に刑場があり関所破りの重罪人は火焙りの刑に。地元の人々は処刑者を憐れみ火焙りになぞらえて焙烙地蔵として祭ったのだそうだ。東海道・宮宿でも焙烙地蔵を見たが、その云われとは大変な違い。
この先は利根川の堤防下まで旧日光街道の町並みが続く。数分歩いた右奥、「顕正寺」(右)の墓地に栗橋宿を開き本陣役を務めた池田鴨之助が眠っている。
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さらに数分歩いた左奥の深廣寺の境内に並んでいる「六角名号塔」(左)は凄い迫力。伊豆大島から持ち帰った石を刻んだ塔で高さ3.6mの六角柱という珍しいもの。
街道に戻ると あちこちの電柱に赤いマークが。 これは昭和22年(1947) のカスリーン台風で利根川が決壊したときの「洪水の水位」(右)。なんと2mを超す高ささまで水が、絶句!
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「しずやしず 賤のをだまき・・・」といえば静御前であるがJR栗橋駅前の公園で見たのは「静御前の墓」(左)。「源義経を追った静御前、義経討死を知り失意のうちにこの地で死去。 高柳寺に葬られた」のだとか。和泉式部ならいざしらず、貞淑な静御前の墓もあちこちにあるようだ。
街道に戻り 真っ直ぐな道を利根川の土手に向かって進むと土手の手前、右奥に池田家の「本陣跡」(右)がある。道路反対側に脇本陣が有ったと言うことだが今は分からない。
コメント:本陣跡は利根川スーパー堤防工事のため撤去されました。
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本陣跡の少し先を右に入ると、「栗橋関所跡碑」(左)が建てられている。箱根・碓氷などと並ぶ需要な関所で特に「入り鉄砲と出女」を取り締まっていたが今は石碑のみとなってしまった。
街道に戻ると道路向こうの奥は八坂神社。この神社には なんと狛犬ならぬ「狛鯉」(右)が。しかも阿形・吽形の一対で。 本殿の回りには日枝神社や御嶽山神社、秋葉山神社など幾多の神様が鎮座している。どこへお参りすればよいのやら。
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神社左側を道なりに進むと高く土盛りされた「関所番士屋敷跡」(左)が見られる。現在もここに住まわれている足立家は寛政12年(1800)に金町松戸関所からの転勤だとか。
街道に戻り交差点向こうの土手を駆け上ると ついに見えました板東太郎の「利根川」(右)が。彼方に筑波山が見える。振り向けば栗橋宿が一望。なんとその先に富士山がくっきりと見えるではないか。
コメント:この周辺はスーパー堤防工事のため道路事情が変わっています。
川の向こうは常陸国(茨城県)。橋を渡ると中田宿が待っている筈だが。
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