江戸時代を想像して、一直線の松並木をテクテクと30分も歩きました |
江戸時代の中田宿は現在の利根川橋下の河川敷であった。洪水などの影響で何回か移転しているが大正から昭和にかけての堤防改修工事で
宿場跡は消滅してしまい今の中田町で往時の面影を探すことはできない。 |

坂を下ると道は右にカーブするがカーブ際の説明版に「房川渡と中田関所跡」(左)のことが。記されている内容は「当地と栗橋の間の利根川の流れを房川(ぼうせん)と呼び 房川の渡 しと言われた渡船場があったこと、中田関所が設けられていたこと」等々。
数分歩くと火の見櫓に「中田宿説明板」(右)が取り付けられている。この宿場は利根川河川敷に延長530mに渡って本陣・問屋・旅籠・茶店などが軒を並べていたが堤防工事の影響で今は全く痕跡が無い。
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5〜6分歩くと左奥に見えるのは鶴峯八幡神社。この神社の創建は源頼朝とも二代将軍源頼家とも云われている。
神社の先は静御前ゆかりの「光了寺」(左)。当寺は静御前の亡骸を葬った寺だとされており、以前は栗橋宿にあった。寺には静御前が後鳥羽上皇から賜ったという「蛙獏龍の舞衣(あまりゅうのまいぎぬ)」など遺品が保存されているそうだ。
山門を入ると左側にあったのは「芭蕉句碑」(右)。
いかめしき 音や霰(あられ)の 檜木笠
いかめしき・・・・烏賊飯かと思ったよ。
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この先の「中田町の町並み」(左)は見渡す限り真っ直ぐ。ごく普通の町並みがどこまでも続いており左にカーブするとJR宇都宮線の踏切。
踏切を渡ると またまた松並木の真っ直ぐな道が続くが、この道路は「中田の松原」(右)、あるいは茶屋新田の松並木と言われ一里近くに渡って一直線の松並木が続いていたという。当時の資料に「東海道にもこれだけの松並木は無い」と記されるほどの自慢の松並木だったのだとか。
歩いても歩いても景色が変わらない一直線の松並木をテクテクと30分。国道354号との交差点を過ぎると古河宿が近い
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