二荒山神社に鉄製の狛犬が。 この狛犬、とっても可愛いんだ |
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日光・奥州街道の中では最大規模の宿場であった宇都宮宿は、『宇都宮城の城下町』でもあり、『二荒山神社の門前町』でもあり、
『日光・奥州方面への追分けの町』でもあるという多面性を持った宿場であった。 |
奥州街道の出発地は、「伝馬町の追分」(左)から。日光街道を旅したときはこの追分を左に曲がって行ったのだが、今回の旅ではここを真っ直ぐ進むことになる。
追分表示の下に当時の様子を描いた絵が貼り付けられているが(左写真)どうしてどうして、賑やかな追分けだったようだ。
横断歩道を渡ったら真っ直ぐ行かず右の横断歩道を渡ると「本陣跡」(右)であるが今は表示で知るのみだ。 ちなみに右写真で向こうへ行く道が日光街道、右へ行く道が奥州街道である。 |
これから奥州街道をてくてくと白河宿まで歩くのだが、NHKの「街道てくてく旅」でも卓球の四元選手が日光・奥州街道を旅するようだ。(平成19年9月24日、日本橋出発)
追い越されないように頑張らなくては。
街道の左側に戻り5〜6分歩いて「朝日坂」(左)を下り、かつては杉林だったという「杉原町」(左)を通ってゆく。
数分歩くと「二荒山(ふたあらやま)神社大鳥居」(右)が街道際に立っており、その奥に長ーい参道階段が続いている。地元では「二荒さん」と呼ばれ親しまれているが、日光の二荒山神社とは関係無い。 |
鳥居横の説明板に「鉄で出来た狛犬」との表記。鉄製?興味津々。境内を一生懸命探したが見つからない。おみくじ売場の巫女さんに聞いたところ社務所の中にあるという。
ありましたよ「鉄製の狛犬」(左)が。狛犬というより子犬といったほうがピッタリの可愛らしさ。国指定の重要美術品となっているが建治3年(1277)の作だそうだ。
境内左の階段を下りると「宰鳥(蕪村)句碑」(右)を見ることができる。
鶏は羽に はつねをうつの 宮柱 |
街道に戻ったら、千手町、大工町を通って足利銀行前の交差点を左に曲がり、上川原通りへと入って行く。
奥まった所に「清巌寺」(左)という寺院があるが、境内右手のお堂の中に国指定重要文化財の「鉄塔婆」(右)が収められている。
鎌倉時代の正和元年(1312)、時の宇都宮城主が亡き母供養のために建立したのだとか。3m超の塔婆は鋳鉄製としては我が国最古のもの。 |
清巌寺を出て田川に架かる幸橋を渡ると交差点向こうに見えるのは重厚な造りの「旧篠原家住宅」(左)。江戸時代から醤油醸造業を営んでいた篠原家だが、裏の広大な醤油醸造倉など多くの建物を戦災で焼失。石倉とこの母屋だけが残った。ちなみにこの建物は明治28年(1895)の建築。
家の中を見学して「凄い」とうなってしまったのが1尺5寸というケヤキの大黒柱。2階に上がると、いやー懐かしい。この「廊下」(右)で雪見をしながら一杯やりたいもんだ。 |
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篠原家住宅を出ると街道は
北東方向に真っ直ぐ続いている。
7〜8分歩いた先に「八坂神社」
があるのでちょっとお参りを。 |
その先で街道は二股に分か
れるが、ここも真っ直ぐ進み、
県道125号の「白沢街道」に
入って行く。 |
竹林(たけばやし)交差点の100m
ほど先に、それはそれは立派な
「長屋門」がある。
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街道のあちこちで見かけるのは
「大谷石造りの蔵」。白壁の蔵
とは違った風情がありますねー。 |
銀行の前に「街道松」(左)が1本。かつては松並木だったこの辺りも一人ぼっちの松になってしまったようだ。
銀行の裏側奥に「刑場跡」(右)がある。宇都宮城主の命に従わなかった根来衆100人を処刑した場所で首塚とも云われている。
処刑された根来衆の胴は少し手前の白山神社裏手に埋められ胴塚が造られたが、いまはその痕跡は全く無い。 |
先ほど一人ぼっちの街道松を見たが、こちらは「一人ぼっちのポンプ」左)。かつては一家の喉を潤した大切なポンプだっただろうが、いまは更地にポツンと立つのがなんともわびしい景色。
こちらは名残りの「街道杉」(右)が数本。
どうもネガティブな景色ばかりだが、どうしてどうして、街道には晩夏の太陽がじりじりと照りつけており、わびしいなどとは言っていられない。 |
次の宿場白澤宿へ
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