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(1)大月追分から十日市場まで
(2)十日市場から下吉田まで
(3)下吉田から富士浅間神社まで
(1)大月追分から十日市場まで
街道地図
富士道は甲州街道の大月追分から分かれ富士山へ向かっていく。
今は国道139号と重なる部分が多くトラックが行き交うちょっと危険な道となってしまったが、
かつては多くの巡礼者で道が真っ白になったという。
途中にはレンガ造りの 落合水路橋 や松尾芭蕉が句に詠んだという 田原の滝 なども見られ、
道沿いには往時の面影残る石仏・石塔が多く、飽きない旅ができる。
平成30年12月4日
中央線大月駅の駅前交差点から右に曲がり甲州街道に入ると、そこは旧大月宿。10分ほど歩くと大月橋東詰交差点となるがここが甲州街道から富士道が分かれる大月追分。
ここには
「3基の追分道標」
(左)が建てられている。 それぞれには「左 富士街道 右 甲州街道」 「左 富士山道 右 甲州道中」 「左 ふじ道 右 甲州道中」 と刻まれている。時代によって呼び方が変わっているようだが、今は道路標示が「富士みち」となっており、地元の人達も「富士道」と呼んでいる。
追分から10分ほど歩くと道路際に
「多数の馬頭観音」
(右)がある。ネット上にはここは大月関所があった場所、という記述が見られるが甲州街道
(甲州道中)
以外の関所については資料が見つからない。
馬頭観音群の先でも道路際の石仏・石塔が多数見られる。
馬頭観音群から4~5分歩いた先の道路際に
ひっそりと立っているのは六十六部供養塔。
さらにその先数分、高さ30センチほどの小さな
馬頭観音が。なんとも優しいお顔をしている。
このすぐ先は三嶋神社。
田野倉駅入口信号から数分歩くと歩道際に
元禄7年の庚申塔や馬頭観音、廻国巡禮供養塔
などが並んでいる。
さらに7~8分歩いた先の甘酒橋手前にあったのは
昭和*年の馬頭観音や享保13年の庚申塔、明和7年の
道祖神など。
甘酒橋 なんとも意味深な橋名だが、云われが
全く分からないのです。
甘酒橋を渡った先の川沿い広場に二十三夜塔と
文字が読み取れない自然石の石塔がある。
さらに10分ほど歩くと右側の広場に文字が読み
取れない石塔が3基。墓石ではなさそうだ。
ほどなくリニア実験線の高架橋が見えてくる。
地上を時速500kmで走るとは凄いネ~
リニア実験線のすぐ先の富士急行大月線ガードを潜り1~2分歩くと右側に僅かな区間だが旧道が残っている。
旧道を100mほど歩き国道を横断した先も旧道。その先に東京電灯
(現東京電力)
駒橋発電所用の
「落合水路橋」
(左)が見える。煉瓦造のアーチ橋で明治40年
(1907)
に建設されたもの。国登録有形文化財に指定されている。
旧道はこの先で朝日川を越えていくのだが、今は橋が無い。国道まで戻り落合橋を渡って数分歩き古川渡信号まで来たら左へ曲がり50mほど歩いたら右へ曲がると旧道に復帰できる。
5~6分歩くと右奥に石仏が並んでおりその先に地蔵堂が見える。祀られている
地蔵尊
はなんとも素朴なお顔。文政9年
(1827)
に信州高遠の石工によって彫られたもので、30センチほどの胎内仏が安置されていることから子持ち地蔵と。
その先の十字路を横断し数分歩くと丁字路手前に 南無阿弥陀佛 と刻まれた
「六字名号塔」
(左)が1基と小さな祠が。名号塔の台座部分は道標になっているのだが 右 左 の文字しか読み取れないのが残念。
その先の丁字路を右に曲がって宮川上橋を渡り左に曲がると、擁壁の上に
「富士道あやめ坂道標」
(右)が据えられている。刻まれている行き先は「右 秋山村 左 ふじ山」。
さらに7~8分歩くと熊野神社があり、その先100mほど歩くと国道139号に合流。この先しばらくは国道を歩く。
国道を10分ほど歩いた左の鳥居奥は
「生出
(おいで)
神社」
(左)。 この神社の歴史は大変古く、大宝3年(703)に背後の生出山頂に諏訪神を奉斎したのが始まり。延長7年
(929)
に現在地へ勧請し里宮としたのだそうだ。
明和5年
(1768)
に建立された
本殿
が素晴らしい。江戸から招いた彫刻師によって、柱以外の全面に見事な彫刻が施されている。
その先数分、道路右側に
「常夜灯と勢至尊」
(右)があるが、富士道の旧道は常夜灯と反対側の細い道に入って行く。
数分歩くと道路際に
「馬頭観音2基と六字名号塔」
(左)がある。この先で一旦国道に出て、次の四日市場信号で左に曲がりコンビニの裏を回り込むと旧道に戻れる。
数分歩くと左右に稲荷神社があるが、この間の
「細い山道が旧道」
(右)。踏み跡がしっかりしているので迷うことは無い。山道に入るとすぐに
「石仏・石塔群」
(右)が現れ、かつてここを多くの旅人や荷馬が通ったことが伺える。昭和59年
(1984)
と刻まれた真新しい馬頭観世音があるのにはちょっとびっくり。
山道を5~6分歩くと二十三夜塔があり、その先の墓地脇を左に回り込むと深泉院の前に出る。この先の富士道は一旦国道に出るようだがはっきりしない。
寄り道したい所があるので深泉院から谷村発電所横、桂川神社前を通って山裾を回り込む道を歩くことにした。
谷村水力発電所の脇に鎮座している
「桂川神社」
(左)は発電所の守護神として勧請されたもので、祭神は木花咲耶姫のようだが、由緒書きがほとんど読み取れない。
10分ほど歩くと西涼寺、専念寺、東漸寺と3軒の寺院が並んでいるが、3軒目の東漸寺に
「芭蕉句碑」
(右)がある。この句碑は「師弟親愛の碑」とも呼ばれており、二句刻まれている。
松風の 落ち葉か水の音涼し 芭蕉
人は寝て 心ぞ夜を 秋の昏 麋塒
(びじ)
(芭蕉の弟子である高山麋塒)
東漸寺を出て国道に合流.。数分歩くと左奥に
「円通院」
(左)が見える。応仁元年
(1467)
に円通庵として創建されたが、寛永10年
(1663)
に谷村城主・秋元奏朝によって現在地に移され円通院に改称。
正面に見える山門は寛永元年
(1748)
の造営。右手に小さく見える鐘楼は宝暦元年
(1751)
に再建されたものだが、下げられている梵鐘は貞享3年
(1686)
に寄進されたもの。
境内右手の芭蕉堂に
「芭蕉句碑」
(右)が納められている。建立されたのは寛政5年
(1793)
。
旅人と 我が名よばれん はつ時雨
はせを
円通院を出て国道を数分歩いた左奥の ぴゅあ富士 にも
「芭蕉句碑」
(左)がある。
山賊の おとがい閉る むぐらかな
江戸を火の海にした天和2年
(1682)
の大火で焼け出された芭蕉は門弟を頼って谷村
(やむら 現・都留市)
に滞在。このため都留市には多くの芭蕉句碑が残されている。
再び国道に戻り数分、市役所入り口交差点を右に入ると裁判所前に
「谷村陣屋跡碑」
(右)が建てられている。谷村藩一万八千石の秋元氏が宝永元年
(1704)
に川越藩に移封された後は天領となり幕末まで陣屋が置かれていた。
交差点まで戻ると左前方に古民家が見えるが、この建物は大正10年
(1921)
ごろに建てられた
「旧仁科家住宅」
(左)で、現在は商家資料館として一般公開されている。都留市が織物の街として栄えた頃、絹問屋であった仁科家が建てた商家造りの建物で、当時としては珍しい和洋折衷の造りとなっている。
その先数分の左奥に長安寺の山門が見える。 谷村城主であった徳川家康の重臣、鳥居元忠が天正13年
(1585)
に開基。
「本堂」
(右)は享保10年に再建されたもので市内最古の建物。徳川家康が郡内巡視をした際に寄進したと伝わる茶壷が寺宝とされている。
長安寺を出たら国道を10分ほど歩き金山神社入口交差点を右に曲がると旧道に復帰。旧道を15分ほど歩くと再び国道に合流。途中で幾つかの石塔が見られる。
金山神社入口交差点際の石塔は
道祖神
。
右に曲がり50mほど歩くと
庚申塔が2基
。
小さい庚申塔はかなり激しい傷み。
富士急の踏切りを渡り左に曲がると
普門寺
。
7~8分歩いた先の法泉寺入口右側の
石塔は
萬霊等
左側には
多数の石塔
が並んでいる。
旧道はほどなく国道に合流。5~6分歩くと右手に滝下不動尊があり、正面に田原神社が見える。
田原神社の左側を進むと
「芭蕉さんがベンチに腰かけており芭蕉句碑」
(左)もあるではないか。
勢いあり 氷り消えては 瀧津魚 芭蕉
先ほども記したが、江戸の大火で深川の庵を失った芭蕉は弟子であった高山傳右衛門
(
俳号・麋塒)
を
頼って谷村に滞在。芭蕉39歳のときであった。
その先の佐伯橋からは芭蕉が詠った
「田原の滝」
(右)が正面に見える。かつては名瀑として知られていたが崩落が繰り返され往時の姿を失ってしまった。それでも十分に見応えのある滝景色だ。
佐伯橋を渡ると国道139号に合流。5分ほど歩くと富士急行・十日市場駅があったので今回の旅はここまで。
十日市場駅から下吉田
まで
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