国道16号を東進すると歩道橋の下に「和田村道橋改修碑」(左)がある。第3回で見た「白根村道橋改修碑」と同一人物の櫻井茂左衛門が資金を提供して道を改修し橋を架け往来の難儀を救ったという。
しばらく歩くと横浜新道の高架が国道16号を横切っているが その手前を右に入るとここにも杉山神社が。
境内右手の石仏石塔群の中にある「庚申塔」(右)(一番右側)は道標を兼ねており側面に刻まれた行き先は 「これより右八おうじみち」 「これより左大山みち」 と。 |
この先は何回か国道16号を横断しながら宮田2丁目交差点まできたら左に曲がっていく。 |
左の道に入ると、すぐの所にあったのは「延命地蔵堂」(左)。
その昔、行き倒れの旅人の供養と旅人の安全を祈願して建立された地蔵尊だとも云われている。
その先4〜5分、道路際の祠の中に「庚申塔」(右)が。かなり風化が進んでいるが立派な祠の前には花が手向けられ水桶も置かれて大事にされているようだ。 |
すぐ先で丁字路に突き当たるが ここは「芝生(しぼう)の追分」(左)と呼ばれる旧東海道と八王子道(浜街道/絹の道)の追分。標柱の説明書きには「八王子道は・・・・横浜へと絹が運ばれ 絹の道 とも呼ばれています」と。
かつて旧東海道を歩いたとき「いずれ八王子道も歩きたい」と思いながら通り過ぎたことを思い出す。
ここからは「旧東海道」(右)を横浜駅方向へと歩くのだが歩道に「旧東海道」(右)と記されたプレートが埋め込まれているのが嬉しいじゃないですか。 |
しばらく歩くと街道際に鳥居が。
坂道を上った先に鎮座する「浅間神社」(左)は承歴4年(1080)に富士浅間神社の分霊を勧請して創祀したと云われ、源頼朝が文治元年(1234)に平家討滅の戦勝奉賽で社殿を修築したと伝えられている。
「本殿」(右)が素晴らしい。
総丹塗りの浅間造り2階建は富士山本宮浅間大社の本殿と同じ造りで、1300社ある浅間神社の中でも数社だけだとか。 |
浅間神社から街道に戻ると その先は公園を挟んだ三叉路。旧東海道は公園の真ん中を通り抜けて浅間下交差点を渡り横浜駅方向へと向かっている。 |
交差点を渡ると東海道から分かれて右へ曲がる道があるが この道を「横浜道」(右)と呼んでおり歩道の真ん中に埋め込まれているのは 旧東海道と横浜道 の二枚のプレート。
傍らの よこはま道説明板 に「安政5年(1858)、開国にふみきった幕府は東海道筋の芝生村から横浜に至る道を築き、新田間・平沼・石崎(現・敷島橋)の三つの橋を架け、戸部坂・野毛坂の切通しを開き、さらに野毛橋(現・都橋)・太田橋(現・吉田橋)を架けた」と記されている。
その最初の橋が浅間下交差点から4〜5分の場所にある「新田間橋(あらたまはし)」(右)で当初は木製であった。 |
新田間橋から5〜6分、東海道線・相鉄線を跨ぐ巨大な平沼橋が見えるが旧道はその右脇の側道を進んで行く。 |
ほどなく見えたのが帷子川に架かる2番目の「元平沼橋」(左)。当初は平沼橋という名称であったが昭和3年(1928)に新設された東海道線を跨ぐ橋を平沼橋と命名したため こちらは元平沼橋に。
かつては元平沼橋を渡り踏切りを横断して平沼商店街へ入っていったが今は通行止め。エレベータを乗り継いで向う側へ。
エレベータを下りると線路際に 「横浜道説明板」(右)が建てられており往時の新田間橋と平沼橋が描かれている。 |
横浜道説明板から振り向くと そこは「平沼商店街」(左)。横浜道沿いに発展した商店街で かつては大変な賑わいだった。
商店街の真っ直ぐな道を400mほど歩くと3番目の石崎橋があるはずだが そこにあったのは「敷島橋」(右)。
大正4年(1915)、高島町に横浜駅が造られたとき石崎橋は上流側に移動。昭和5年(1930)に石崎橋があった場所にできた橋が敷島橋であった。 |
敷島橋を渡って10分ほど歩いたらちょっと寄り道を。戸部4丁目交差点を左に曲がった辺りを「岩亀横丁」(左)と呼んでいる。交差点際の説明板によると「岩亀楼で働く人の療養のための寮があったことから岩亀横丁と呼ばれるようになった」 とある。今は横丁というには広すぎる道路に変わってしまった。
岩亀横丁中ほどの路地を入ると「岩亀稲荷」(右)が鎮座。岩亀楼の遊女たちが信仰するお稲荷さんだったことから こう呼ばれているのだが お稲荷さんを粗末にするとご婦人方に災いが生じるとか。 |
岩亀横丁から横浜道に戻ったら、もう一カ所寄り道を。 |
ちょっと高台になった掃部山公園の銅像は「井伊掃部頭像」(左)。
明治42年(1909)、横浜開港50年記念の際、旧彦根藩有志が建立したもので その地を掃部山と名付けている。
コメント:当初の像は昭和18年(1943)に金属回収で撤去され、現在の像は昭和29年(1954)に再建されたもの。
掃部山公園を出て県立図書館・音楽堂の入口側に回ると「神奈川奉行所跡碑」(右)が。横浜開港に伴い戸部村に奉行役所を置き、司法・行政の事務を行ってきたが明治元年(1868)に新たにできた戸部裁判所に業務を引き継ぎ廃止となった。 |
ここまで来たので「伊勢山皇大神宮」(左)にも寄り道を。
関東のお伊勢様 と親しまれる当社は明治3年(1879)、伊勢の森山にあった神社を現在地に遷座し横浜の総鎮守とした。明治4年(1871)に社殿が完成している。現在の社殿は昭和3年(1928)に再建されたもの。
参道の途中に「万葉歌碑」(右)がありました。
志貴皇子 石激 垂見之上乃左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
いはばしる たるみのうへのさわらびの もえいづるはるに なりにけるかも |
横浜道に戻り野毛の切通しを通って「野毛坂交差点」(左)まで来たら左に曲がっていくのだが、野毛山公園の中に横浜をこよなく愛した俳人の句碑があるというので右へ曲がり野毛坂を上って寄り道を。
公園の中にあったのは「中村汀女句碑」(右)。 蕗のたう おもひおもひの夕汽笛
中村汀女が横浜を詠んだ句は他にも。
横浜に 住みなれ夜ごと 夜霧かな 噴水の まろしにのぼる 夜霧かな 船影が つつじの上にふとくなる
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公園をさらに奥まで入ると「佐久間象山顕彰碑」(左)がある。日米修好通商条約により横浜港が開港したが これは佐久間象山が強く主張していたことで、今日の横浜発展の下地を作ったと言える。
ここまで来たのでついでに野毛山動物園を見学していこうと思う。
こじんまりした動物園だが無料で入場できるところがいいんだなー。
入口を入ったすぐの所に「レッサーパンダ舎」(右)があったが かわいいね〜 |
野毛坂交差点まで戻り野毛坂通りを下って5〜6分、大岡川に架かるのは「都橋」(左)。初代の橋は安政6年(1859)に架けられ野毛橋と呼ばれたが後に架け替えられたとき都橋に。
ところで、ちょっと余談になるが
都橋の右手に連なる建物は「都橋商店街」(右)。商店街といえば商品を売る店が並んでいるはずだが ここは60軒の飲食店が並ぶ飲み屋街。夜が更けるほどに活気が増していく。 |
都橋を渡り数分、伊勢佐木町入口交差点を右に曲がると伊勢佐木町商店街だが ここを左に曲がると「吉田橋」(左)の上。
安政6年(1859)に仮橋の太田橋が架けられたのだが馬車が通るのに難儀するという粗末な橋。3年後の文久2年(1861)に本格的な橋に架け替えられたがこの時から吉田橋と呼ばれるようになった。
橋の上に建てられている碑は「吉田橋関門跡碑」(右)。吉田橋ができたことで人の往来が盛んになり その治安を守るため関門が設けられた。当時、この先を関内、伊勢佐木町側を関外と呼んでいたがその呼び名を引き継いだのが
JR関内駅。 |
吉田橋を渡るとその先はノスタルジー漂う「馬車道」(左)。外国人居留地となった関内を外国人は馬車で行き交うようになり馬車道と呼ばれるようになった。
その馬車道をよりノスタルジックにしているのが「ガス灯」(右)。
馬車道には81基のガス灯があるが関内ホールの前にあるガス灯は日本で最初に点灯された馬車道本通りのガス灯を復元したもの。
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馬車道の中ほどに「下岡蓮杖顕彰碑」(左)なる碑が設置されている。商業写真の開祖といわれる蓮杖は文久2年(1862)に写真館を開業。当初、日本人は写真を撮ると命を吸い取られると思っていたらしい。
馬車道やこの先の海岸通りには歴史的建造物が多いが、顕彰碑の対面にあるビルは「旧川崎銀行横浜支店」(右)。
大正11年(1922)の建築で横浜市の歴史的建造物に認定されている。 |
その隣の県立博物館は国指定重要文化財の「旧正金銀行本店本館」(左)。 明治33年(1900)に着工し明治37年(1904)に完成した建物は明治時代の代表的な洋風建築。
その先右側の建物は「旧富士銀行横浜支店」(右)。昭和4年(1929)に安田銀行横浜支店(後の富士銀行)として建てられたもので銀行建物の典型。この建物は横浜市認定の歴史的建造物。 |
交差点の向うに見える赤い柱の建物は「旧生糸検査所」(左)。
大正15年(1926)に建築され「キーケン」の名で親しまれたが十数年前に解体されてしまった。 現在の建物は当時を忠実に再現した新築建物で横浜市の歴史的建造物に認定。
海岸通4丁目交差点まで来たら右へ曲がり海岸通りに入ると「横浜郵船ビル」(右)が見える。 昭和11年(1936)の建築だが最大の特徴は正面にある16本のコリント式列柱。 |
神奈川県警本部先の建物は「横浜税関ビル」(左)。このビルは海側から眺めるのが良い。昭和9年(1934)の建築で横浜市認定歴史的建造物。最大の特徴は横浜三塔の一つ、クイーンの塔だ。
税関ビルを海側から眺めたので、ついでに汽車道に上がって「象の鼻」(右)も見ておこうと思う。
安政6年(1859)に横浜港を開港した際は直線の西波止場と東波止場が造られた。その後、波の影響を避けるために東波止場を 船溜まりを取り囲むように伸ばしたがこの形が象の鼻に似ているのだ。 |
海岸通りに戻ったら「日本大通り」(左)に寄道を。横浜公園から象の鼻(横浜港)へ向かう西洋式街路は明治4年(1872)に完成。馬車や人力車が行き交うメインストリートであった。今は銀杏並木が有名。
日本大通りにも歴史的建造物が大変多いので何カ所か見学を。
大通りに入ってすぐの「神奈川県庁本庁舎」(右)はキングの塔として親しまれている。 昭和3年(1928)に創建された和洋折衷の外観を持つ建物は県内で最初の国登録有形文化財。 |
県庁敷地の左側にある碑は「神奈川運上所跡碑」(左)。横浜開港に伴って神奈川奉行所が関税業務や外交業務を行っていたが明治4年(1871)には大蔵省の管轄となり税関という名称に変更。
県庁に沿って右に曲がると「開港記念館」(右)の赤レンガ造り建物が見える。横浜開港50周年記念として大正6年(1917)に建てられたもので、こちらはジャックの塔。国指定重要文化財。 ここに岡倉天心生誕之地碑がある。ここは父勘右衛門が支配人をしていた生糸売込店があった場所。天心はここで生まれている。 |
日本大通りにはこの他にも歴史的建造物として旧横浜商工奨励館や旧横浜地方裁判所、旧英国領事館など見どころが多い。 |
海岸通りに戻り次の交差点まで来ると開港広場の中にあったのは「日米和親条約締結地碑」(左)。 安政元年(1854)、日米代表が会見し和親条約を結んだ場所が現在の神奈川県庁付近だという。
交差点を右に曲がると見える白い建物は昭和8年(1933)に建てられた「横浜海岸教会」(右)。明治8年(1875)鋳造の鐘を今も開港広場に鳴り響かせている。横浜市歴史的建造物に認定。 |
ついに到着しました、「シルクセンター」(左)。
八王子を出発したシルクは浜街道を通り横浜道を経て像の鼻(横浜港)まで運ばれたのだろう。その道を4日掛けて歩いてきました。
ビルの左端に英一番館跡碑が建てられているが ここは英貿易社ジャーデン・マセソン商会が安政6年(1859)にオフィスを設けた場所。
居留地一番地であったことから「英(えい)一番館」と呼ばれていた。
最後にシルクセンター内のシルク博物館を見学して今回の旅の締めとした。
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