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旅人 人見街道 道中記
人見街道道標

①大宮八幡宮から三鷹市役所前まで  ②三鷹市役所前から八幡町まで

三鷹市役所前から府中八幡町まで 街道地図

今回の旅は三鷹市役所前から旧甲州街道の府中市八幡町まで。市役所前を西進する街道は野崎、大沢を通って東八道路を
横断し、野川を渡り、西武多摩川線の踏切りを越え、府中市若松町(旧人見村)に入って行く。
その先は自衛隊基地で旧道が消滅するが八幡町あたりで旧甲州街道に合流していた。 途中、標高80mほどの浅間山に登る
が ここには鎌倉時代末期から南北朝時代に掛けて活躍した武士、人見四郎の墓跡がある。
最後に武蔵総社の大國魂神社に参拝して旅の締めくくりとした。

平成30年8月30日
出発して十数分歩いたら野崎交差点の手前を左折して寄り道を。

向かった先の野崎八幡神社は元禄2年(1689)の創建。 変わっているのは社殿が北向きであること、神社でありながら境内右手の「薬師殿」(左)に薬師瑠璃光如来が祀られている。この薬師如来は江戸時代末期、三河・鳳来寺の梅風尼によってもたらされたと伝わっている。その時以来十月に 団子まき の行事が行われているが今日まで一回も途絶えることなく続いているという。

街道に戻り交差点を渡ると武蔵野の風物詩である「ケヤキ並木」(右)が現れる。今は本数が激減してしまったが、かつては両側から街道に覆いかぶさりトンネルのようになっていたことから暗闇街道とも言われていた。

さらに十数分歩き大沢交差点まで来たらまたまた左に曲がって寄り道を。向った先は長久寺。
本堂の左手に「鷹場標石」(左)がある。三鷹市役所にあったものと同じで、隣り合っていた将軍家と徳川尾張家の鷹場の境界に建てられてたもの。7本あったがその内の1本で、刻まれている文字は「従是東西北尾張殿鷹場」。

街道に戻り5~6分歩くと街道際の右手に鎮座しているのは慶長年間(1596~1614)の創建と伝えらる大沢八幡神社。ちょっと目を引くのが「屋根付きの明神鳥居」(右)。屋根付きは時々見るがこの鳥居は妙に印象に残っている。

街道はこの先の東八道路を横断して大坂を下り野川を越えて行くのだが坂を下ったら寄り道を。

左に入る道が旧道だが、その入口から大沢緑地に入る山道を登ると出山横穴墳墓群があり その中の「8号墓」(左)が一般公開されている。7世紀後半頃の築造と推定される玄室内からは4体の埋葬人骨が発見された。

街道に戻り野川に架かる相曽浦橋を渡ったら左に曲がり野川沿いを数分、見えた古民家は「旧峯岸家住宅」(右)。
この建物は文化10年(1813)頃の建築ということだが峯岸家は代々水車経営農家であった。 野川の水を引いて回した水車は文化5年(1808)に造られたもの。現在は三鷹市の管理となっているが水車は今も回り続けている。

旧道と都道が合流した所の龍源寺に新撰組局長であった「近藤勇の墓」(左)がある。文久3年(1863)、土方歳三らと京都に入り慶応3年(1867)の大政奉還まで新選組として活躍した近藤勇だが鳥羽伏見の戦いで敗れ、さらに山梨県勝沼で官軍と戦い大敗。千葉県流山で投降したが中山道の板橋宿で処刑。享年35歳であった。近藤勇墓の隣が勇五郎の墓。

龍源寺の駐車場に近藤勇の銅像が据えられている。 甲州街道上石原宿の西光寺に渋~い顔の近藤勇像があったが こちらの近藤勇も渋~い顔。その前にある「庚申塔」(右)は宝永3年(1706)と明和9年(1772)に造立されたもの。

龍源寺を出て5~6分、街道際の説明版は「近藤勇の生家跡」(左)。近藤勇は天保5年(1834)に宮川久次郎の三男として生まれ15歳の時 天然理心流近藤周助に入門。周助の養子となり近藤姓に。 宮川家の屋敷は7000㎡という広さであったが この地は屋敷の東南部。今、残っているのは近藤勇が産湯に使った井戸だけ。

道路反対側の建物は天然理心流道場「撥雲館」(右)。撥雲館は近藤勇の一人娘 瓊(たま)と結婚し天然理心流五代目を継いだ近藤勇五郎の道場であった。この建物は昭和7年(1932)に改築されたもので昭和50年(1975~)代まで稽古が続けられていたという。

この先で三鷹市から府中市。西武多摩川線の踏切りを越えてしばらく歩くと紅葉丘図書館の前に冒頭の 人見街道碑が。

若松町四丁目交差点向う側にある「人見 説明碑」(左)に「人見の集落は現在の若松町3、4丁目の一部。地名の起こりは不明だが武蔵七党の人見氏一族が来往していたからとも、浅間山(人見山)が 遠くを見たり遠くからも望める格好の場所 であることから起こった名残りかもしれない」と記されている。

その先の街道際に鳥居が建てられているが、ここは 「人見稲荷神社」(右)の参道入り口。 長い参道を歩いてたどり着いた神社は稲荷神社とは思えないような造り。だが、祭神はお稲荷さんでお馴染みの宇迦之御魂神(うかたのみたま)。古くは大國魂神社くらやみ祭りの三ノ宮の御旅所であった。

街道に戻ったらもう一か所寄り道を。向かった先は浅間山公園。標高80mほどの小高い丘だが登る途中に「人見四郎墓跡」(左)があり石碑が建てられている。石碑には 「ここは鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武士・人見四郎の墓跡と伝えられる」 と刻まれているが人物情報がちょっと少ない。

整備された遊歩道を進むと頂上に小さな祠の「浅間神社」(右)が。創建年代は不詳だが かつては例祭のときに多くの崇敬者を集めていた。今も散歩がてらの参拝者が結構多い。傍らの説明板によると、周囲に広がる人見ケ原の地は南北朝時代の正平7年(1352)、足利尊氏と新田義興・義宗兄弟の軍が両朝の命運をかけて戦った古戦場であったという。

街道に戻り新小金井街道との交差点まで来ると現・人見街道(都道110号)の起点を示す道路標識が建てられている。

その交差点を渡ると「人見道碑」(左)が。正面側の説明に「人見道の名は、八幡宿から人見へ行く道だったことに由来する。この道は こみとめ道 と合流して人見街道に通じていました」とある。ということは、この先は人見道。

その人見道だが、すぐ先から航空自衛隊府中基地。残念ながら人見道は消滅。自衛隊脇を通り甲州街道(国道20号)を横断し旧甲州街道に入ると八幡宿(現・八幡町)が近い。八幡宿で人見道に係わる何かを探したが見つからない。せめてもと八幡宿の地名となった「武蔵国府八幡宮」(右)に参拝。この神社は聖武天皇(724~749)が一国一社の八幡宮として創立したと伝えられている。現在は大國魂神社の境外末社。

今回の旅の〆は武蔵国の総社である「大國魂神社」(左)。景行天皇41年(111)に大國魂大神がこの地に降臨しそれを里人が祀ったのが始まりとされる古社。大化の改新(645)のとき境内に国府が置かれたが、この時、国内諸神を配祀、これが総社の起源とされている。大國魂神社はいつ来ても参拝者が絶えない。

帰路はJR府中本町駅へ向かったのだが その途中で思わぬ場所に遭遇。大國魂神社の裏側に「武蔵国府跡」(右)が整備され一般公開(2018年4月から)されたのであった。広場の一角には国司館(こくしのたち)の柱跡が復元されている。この場所は後に徳川家康の府中御殿が置かれた場所でもある。          これで人見街道の旅 終了。


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