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東三崎道 道中記

(1)浦賀から三浦海岸まで   (2)三浦海岸から三崎まで

(2)三浦海岸から三崎まで 街道地図


東三崎道の旅 2回目は京急・三浦海岸駅から。
駅を出たら前回の最後であった海防陣屋跡の前を通って旧道に入る。国道134号を横断し
住宅地の中を抜けて山裾の鄙びた道を歩き、坂道を上って下宮田で国道に合流。20分ほど
歩いた先の引橋で西三崎道と合流して県道26号を三崎へ下って行くのだが県道の西側に
旧道があるので再び旧道へ。 旅の最後は源頼朝が設けた三つの御所跡を巡り三崎公園で終了。  

令和元年8月19日

京急三浦海岸駅を出たら海防陣屋跡の前を通って旧道へ。国道134号を横断して数分、右奥の御堂は「閻魔堂」(左)。 詳しいことは分からないが、この先の十劫寺の管理で「岩井口閻魔堂」と呼ばれている。閻魔像の前にガラスが嵌め込まれているため午前中は反射で閻魔様が全く見えないのが残念。

隣の祠に鎮座しているのは三浦では珍しい「岩船地蔵尊」(右)。その昔、漁師が沖で時化に遭いあわや沈没の危機に瀕したが、日頃信心している地蔵様に祈ると船は沈没を免れ無事に帰ることができたという。漁師は地蔵様に感謝して船に乗った地蔵尊を造立し祀ったのだそうだ。

その先4~5分、十字路向うに並んでいるのは「8基の庚申塔と六十六部供養塔」(左)。元文5年(1740)、寛政12年(1800)など60年毎の庚申年に交じって昭和55年(1980)という つい最近の庚申塔があったのは驚き。

十字路を右に曲がった奥の「十劫寺」(右)は土地の豪族 松原新左衛門が開基。三浦二十八不動霊場の十三番札所。 そのお不動様は室町時代の天文十五年(1546)の作という。

境内右手にマカセ漁師の墓6基が並んでいる。江戸時代、紀州雑賀地方に住む漁師によって各地に広められた漁法で、大きなマカセ網を使って主に鰯を獲る漁法だが、その漁師達の墓が墓地以外の場所にあるという不思議。

10分ほど歩いた先の白山神社は源頼朝に仕えた三浦一族の武将、菊名左衛門重氏によって加賀国一之宮白山神社を勧請したと伝わる。神社裏の崖地中腹に洞穴が見えるが、これは奈良時代に造られたという「切妻造妻入型横穴古墳」(左)。 玄室は天井が切妻造りに掘られた妻入型、壁面には朱が施された痕跡が。

数分先の「法昌寺」(右)は、その昔、庄司入道常玄なる人物が霊夢によって海岸で観音像を発見し小さなお堂に安置したのがはじまりで、江戸時代初期に法昌寺と改称したという。
本堂裏に横穴古墳を再利用した三浦一族の墓があるが、この古墳は仲里古墳群。

法昌寺を出て数分、永楽寺の参道に「庚申塔が3基」(左)。一番左は三浦半島では比較的よく見かける左手にショケラを下げた庚申塔。永楽寺は室町時代に創建された寺で、本尊の阿弥陀如来像は行基の作とされ不動明王は運慶の作。

永楽寺を出て山間の鄙びた道を歩いていると道端に「庚申塔が2基」(右)、ひっそりとたたずんでいる。三浦半島は庚申塔が多いところだ。 この先の急坂を上ると下宮田で国道134号に合流、その先も緩い上り坂。

国道の向う側に墓標が見えるが、これは三浦相撲の発展に尽くした錦嶌部屋の親方「錦嶌三太夫供養墓」(左)。寛政5年(1793)に亡くなった三太夫を供養するために三浦・鎌倉などの素人相撲の力士たちによって建立されたもの。台座部分が道標になっており 刻まれた道筋は「北 浦賀道 西 鎌倉道 南 三崎道」。

この先は緩い上り坂の国道134号を約20分、引橋交差点で西三崎道と合流して三崎へ下って行く。
交差点から5分ほど先のポケットパークは「引橋跡」(右)。鎌倉時代からの名門三浦氏は新興の北条氏に攻められ、拠点であった新井城に籠り引橋を落として3年間の籠城戦を行ったが永正13年(1516)に落城し三浦氏滅亡となった。

引橋跡の先で県道は大きく左に曲がりながら下って行くが、ここは右側の旧道に入って行く。

大きな給水塔を右に見ながら鄙びた道を10分ほど歩くと畑の中に「義士塚」(左)と呼ばれる塚が2基。
この塚には次のような伝説が。 85人力とも言われた三浦道寸の息子・荒次郎に北条の家臣4人が立ち向かったが、荒次郎はその勇気をたたえ逃がしてやった。その後、荒次郎の戦死を知った4人はかつての恩に報い自害。のちに村人が塚を造り弔ったという。かつては塚が4基あったとか。

その先の三叉路際に並んでいるのは「7基の庚申塔と2基の馬頭観音」(右)。その内5基の庚申塔は笠付きという豪華なもの。また2基はショケラをぶら下げている。造立年代は寛延2年(1749)から明治34年(1901)まで。

旧道はほどなく県道216号油壷線に合流して左へ曲がって行く。が、その前に右へ曲がって小網代湾の景色(冒頭写真)を1枚。
コメント:小網代湾の高台にある海蔵寺は北条氏との戦いによって滅亡した三浦道寸と息子荒次郎の開基と伝えられるので、ぜひ見たかったが「檀家以外の入山は固くお断り」の表示。残念だが見学はあきらめた。

油壷線の途中、左手の階段を上った先は治承4年(1180)に開かれたという古刹「真光院」(左)。新井城の城域にあったことから三浦道寸・荒次郎父子も深く帰依していたと云われている。 本堂には江戸時代末の作とされる三浦道寸父子の座像が祀られているそうだ。

真光院裏の坂道は神奈川の古道50選に選ばれた「なもた坂」(右)。三浦道寸の側室が自害した場所と伝えられている。「なもた」とは、この地の名主の屋号からと云われているが諸説ある。 県道油壷線ができるまでは三崎から小網代に通じる主要道であった。

油壷線はほどなく県道26号に合流し坂を下って行くのだが、その途中にある小さな寺は地蔵菩薩を本尊とする「真浄院」(左下)。

この地蔵尊には「原の身代わり地蔵」という話が伝えられている。新井城から三崎城へ伝令に出た川島身七は任務を果たした後、城が落ちた事を知り地蔵堂の床下に隠れたが北条軍の追手に見つかり首を斬られてしまった。ところが斬られたのは身七ではなく地蔵尊であったという。

真浄院前の道を下ると旅の目的地である三崎公園に到着するが、途中から脇道に入り寄り道を。
三浦市役所のあたりはかつて新井城の出城であった「三崎城があった場所」(右)で三崎城跡碑が建てられている。落城後は北条氏が五代に渡って兵を置いていたが豊臣秀吉に攻められた小田原北条氏が滅亡すると三崎城は廃城となった。

三浦市役所前を過ぎたら源頼朝が設けた三御所の跡を巡ることに。

最初に向かったのは「大椿寺」(左)。 「椿の御所」があった場所で、この御所には側室が住んでおり庭内は椿の花で埋まっていたそうだ。側室は頼朝没後は「妙悟尼」と称して頼朝の菩提をなぐさめ30余年をここで過ごしたという。

市役所近くまで戻ると「桜の御所跡」に「本瑞寺」(右)がある。多数の桜樹を植え、あわせて城ヶ島の桜を望見するという観桜の宴をしばしば催した場所。 二代将軍頼家、三代将軍実朝もここを訪れている。山門は文政4年(1821)の建立、梵鐘には康永3年(1344)の銘がある。

本瑞寺隣の「光念寺」(左)は文治年間(1185~90)の創建と伝えられているが、ここも源頼朝に関係している。石橋山の合戦で敗れた源頼朝勢は和田義盛らとともに安房へ落ち延びたが、船上の飢えを救ったのが筌(うけ 漁具)。後に義盛の夢枕に筌が現れ龍となって昇天したという。義盛は筌龍弁財天と名づけて光念寺を創建し祀ったのであった。

光念寺の隣は三浦郡の総鎮守「海南神社」(右)。清和天皇の治世、皇位継承争いに絡んで九州博多を出た藤原資盈は貞観6年(864)に当地へ着岸。資盈はここに土着し海賊の平定や村人の教化など里人に貢献したことから地元民に崇敬され、没後、祠を建てて祀ったのが始まりという。境内の樹齢800年という御神木は源頼朝お手植えの公孫樹(銀杏)

寄り道してしまったが次に向かったのは鎌倉将軍がしばしば来遊したという「桃の御所跡」の「見桃寺」(左)。見桃寺は江戸時代に入りこの地を治めた三崎船奉行の向井兵庫頭政が慶長18年(1613)に開基。

本堂の前に「北原白秋歌碑」(右)が据えられている。
     さびしさに秋成がふみよみさして 庭に出でたり白菊のはな   白秋
白秋は大正2年(1913)10月に大椿寺近くの異人館から見桃寺の一室に移り、妻と詫び住まいを始めたが、そのとき詠んだもの。昭和16年(1941)11月2日に白秋も出席して碑の除幕式が行われたが、翌年11月の同日に白秋は永眠。


見桃寺を出て県道26号まで戻り坂を下ると終着地の三崎公園。 目の前の小さな漁港には何艘もの漁船が
陸揚げされており、その先には三崎魚市場も見え、三崎の雰囲気を存分に味わうことができる。
猛暑の中を暑い暑いと言いながら歩いてきたがこの景色を見たら疲れが吹っ飛んだ。

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